科学とテクノロジーの席巻
新型コロナウィルスが武漢から世界中を覆い尽くし、現在9500万人以上が感染し、200万人以上が亡くなっ た。我々はマスクをし、外出を制限されるか、家に留まり、さまざまな不自由に晒されている。亡くなる人を看取ることさえ難しい場合もある。また、人との接触を避けるため、オンラインで会話をすることが多くなった。画面上での話も、必要に迫られてのことで、おそらく誰もが面と向かっての話し合いとの違いに戸惑っているだろう。対面の会話がかつて電話に置き換わったように、映像つきの情報のやりとりに変わった。最低限のやりとりはできるにしても、誰もが何か物足りなさを感じている。バーチャルな会話は、実際情報を伝えることができるが、質的量的なボリュームが稀薄化される。会話は物理的な密接感を前提とするものであるにもかかわらず、人は近くにいない。相手が近くに見えれば見えるほど、違和感は増すという矛盾が生じている。
道具や機械が、伝統的で具体的な人の行為を置き換えることができるという考えは、人類の歴史において新しいものではない。現代においてはとりわけコンピューター技術の発展により洗濯機や掃除機、交通手段から通信技術の発達に至るまで、機械化は我々の肉体労働を軽減しそれから我々を解放し、自由な時間を増大させた。またここ数十年にわたって世界構造を変えてきた通信技術の発展は、国境や時間を越えた情報の瞬時のやりとりを可能にし、技術、経済金融の分野でのいわゆるグローバル化を促進した。
しかしながらそれは物語の終わりではない。というのも、同じ原因で、自由が妨げられるようになってしまったからである。パンデミックが経済やテクノロジーが引き起こしたグローバル化に起因することは言うまでもない。ネットによる容易な情報共有や飛行機による容易な人の移動は、ウイルスの拡散を加速した。地域的な疫病にしか過ぎなかったかもしれない疫病が世界的なパンデミックになることは現代における我々の運命かもしれない。また同じインターネット技術が大企業や政府に利用されることによって、情報収集に利用され、人々の自由を制限する管理に使われるようになりつつある。
テクノロジーは20世紀になり世界の多くを変えた。戦争における戦闘機や戦車、大量殺戮兵器などによる莫大な死者数、産業構造の変化、富の不公平な分配の拡大、都市の景観の変化、我々の消費行動の変化、環境への大きな負担等、その影響は甚大であったが、我々の多くはテクノロジーを大方、積極的に評価してきた。原爆や汚染など多くの問題が引き起こされてきたにもかからず、それは同じテクノロジーによって解決されるはずであると考えるようになった。テクノロジー自体は価値的に中立であり、問題が起こるのは人間の使い方が悪いだけだと。ピストルは人を殺すが、身を守ることもできる、原子力も原爆にも原子力発電に使える、と考えられるようになったのである。テクノロジーは人類に多くの災いを齎したにもかかわらず、それを超越して逆に遥かに崇高な地位を与えられたのである。やがてテクノロジーは現代の魔法になった。
テクノロジーの基本は自然科学である。それは実証的観察に基づき客観的な原理法則を明らかにしようとする考え方である。こうした考えに基づき、原子爆弾が製造され、人は月にも行くこととなった。自然科学はものを対象とする。それはデータ化される事が前提となる。それによって誰もが同じ事を確認できねばならない。それが客観的という言葉の意味である。目に見えなかった、病原菌の作用や、分子や原子の構造などが解明される事で、治療薬が作られ、新たな物質が合成されたり改良されたりすることが可能となった。自然科学は日に日にその支配力を確実なものにしてきた。
一方で、それ以前に大きな力を持っていた、いわゆる非実証的な分野、思弁的な考え方は、西洋の多くの国と同様に、日本でもそれまでの意味や地位を大きく喪失したように見える。前世紀終わり頃までまだ辛うじて生き延びてきた哲学や儒教は、その後公の教育の場からも次第に姿を消してゆく。既に明治期には、福沢諭吉の批判のように、儒教の封建的イデオロギーは時代遅れとされ、大正時代にブームとなったドイツ哲学は富国強兵の軍事強国への流れの中で、天皇制に取り込まれてゆくが、戦後に力を失う。戦後自由や民主主義等の新たな世界への希望として暫く文学が暫く大きな力を振るう。しかし、経済成長と共に、テクノロジーの分野における世界的競争の中で、日本の国家的関心は技術大国への競争に大きく舵を取る。政治的な力を持っていた文学も、技術の波に乗った、世界第2位の経済大国という日本の絶頂期の中で大きく力を失っていく。技術と経済は日本の最も重要な思考原理となり、また国民アイデンティティを形成するようになった。
しかしバブル崩壊後、そうしたアイデンティティは維持できなくなる。かろうじて生まれたのは、アニメや観光イメージを利用した新たな経済政策であった。日本において、伝統的な思想や哲学はほとんど完全に失われていった。そして未だに経済と技術による世界制覇の夢は絶望的になった今も燻り続けている。世界がIT企業に支配されている現在、そこから眼をそらすことはできない。技術への固執は更に強まっている。このことは日本に限らず、先進国においての共通の課題である。こうした科学技術の進展は、様々な企業に巨大な富を齎し、富の独占と貧富の格差を生み出した。新たなテクノロジーの競争が更にテクノロジー信仰を加速するようになった。今やテクノロジーは未来を救済する神となった。
テクノロジーが世界を支配しているのか
しかし、人間がものであるテクノロジーを社会的に利用するためには、認識的な思考や新たな社会的なイメージが必要である。テクノロジーが社会を変化させる有効な手段の一つであるとしても、それ自体が支配を始めるわけではない。インターネットも様々な研究者の意思によって現在の形になったのであり、インターネットの技術それ自体が自然に現在のネット社会を生み出したわけではない。人間の労働を容易にするロボットも同様である。人間の意思がなければ、テクノロジーは機能しないし、人間の意思によって、テクノロジーは生産的にも破滅的にも運用されうる。
現代の社会は、確かに多くの部分をテクノロジーに負っている。大都市や工業、農業や畜産に至るまで、多くの分野に導入され、巨大な産業はもはやテクノロジーなしでは成立しない。しかしながら、インターネット同様にこうしたテクノロジーは人間の意思やより多くの富の追求といった欲望によって生み出されてきたものである。しかし我々はこうした人間の欲望よりは、科学技術自体に目を向け、時には大きな期待をし、時にはそれがあたかも制御できない自律した怪物的な生き物であるかのように見なす様になってしまっているように見える。
見えないものによる支配
しかし、実際には我々の世界は、目に見えないものによって構成され、機能している。世界を構成し、機能させているのは、国家や民主主義、社会主義、会社、仲間、家族、友人関係、更には意思や欲望といった抽象的な、目に見えない思考や概念である。直接テクノロジーや機械が我々の社会を構成し、動かしているわけではない。
更に我々にとって大事なものは、愛や憎しみ、喜びや悲しみ、希望や欲望など様々な内面的な価値である。価値を見いだせない人間集団は、統率のある集団を形成できないであろうし、秩序ある社会を維持することが難しいであろう。また社会は法や道徳という目に見えないものによって結ばれており、そうした前提がある事により、社会は維持される。テクノロジーはその前提があって初めてその力を発揮しうるのである。それゆえ、人間の内面性こそが世界を支配しているといえる。
自然科学は目に見えるものや、実証可能なものを前提とし、それ以外のものを中々認めようとしない。しかし国家や法の支配、人間の感情が科学的に実証ができないからといって存在しないことにはならない。人種差別や性差別も同様である。ある人がどのような思想を持っているかはっきりさせるのは難しい。そもそも人の考えというものは、単純に割り切れないものでもあるからだ。人の思想や感情を体内物質や電気信号で測定し、データ化し、物理的にコントロールしようとしても、それ自体がなんらかの最終的な問題の解決になるわけではない。それはむしろ結果に過ぎない。心理的な苦しみも薬によって一時的に感情が抑えられるかもしれないが、それによって我々が直ちに人生の生き方を変えられるわけではない。
我々の感情は常に外界との関係に依存して変化していて、それは我々の精神生活を本質的に構成し、我々に生の感情を生み出している。それはモノや物理的な環境に依存しているとしても、同時に個人的なものでもある。同じ物理的な環境にいる人間が全て同じになるわけではない。それは極めて複雑な個人の歴史にも関わるものでもある。このように、我々は、本質的に、客観的に実証可能でない、あるいは物理的に実証してもそれがあまり意味を持たない内的価値の世界に生きている。ものだけが支配するのは、機械の世界である。そして機械の世界は人間の意思が支配しているのである。それにもかかわらず、なぜ我々は、自然科学という一元的な原理のもとに、社会制度や人間の感情を不確かなもの、副次的なものと考え、物理学や化学のみが世界を支配する唯一正しい原理だと考えるようになったのであろうか?我々は自分たちの心や精神に対して確信を持てなくなったのだろうか?現実の社会や心の問題を解決する代わりに安定剤を飲むのは、社会的な抑圧によってがんじがらめにされ、動きが取れなくなり、絶望してしまっているからだろうか?
原理の多様性
我々の社会や生は自然科学のような一つの原理に還元できない。世の中には、物理的に検証できない様々な原理が存在する。我々の社会や生は、見えるもの、見えないものによって成り立っている。無論我々は何もない空間に生きることはできないし、内面的価値のない生を生きることもできない。物理的な環境や感情、価値観はどれも我々を本質的に構成する要素であり、重要度はその都度異なってもどれも欠くことができない。技術は人間の意思や欲望によって実現され、社会的な有効性を持ち始める。技術が人間を支配するわけではない。そうした意味で人間の、目に見えない内面性が現実を作り上げ、世界を動かしている。そうした意味では、ものとして存在する科学技術も目に見えない人間の意思や欲望といった内面的な価値も、同等に客観的に存在すると考えねばならない。愛や憎しみは目に見えず移ろいやすいものである。人の言葉は話されるその瞬間に消えてしまう。しかしだからといってなかったことにはならない。人間の歴史を動かしてきたのは、技術ではなく、それを用いる人間の内面性なのである。生きる人間からすれば、人間の内面がどれほど一日一日の我々の生に重要なものか明白である。しかしそれは定着するのが難しいため、それ故証拠として残しづらいがために、我々はあたかも存在していないかのように棚上げしてしまう。しかしそうではない。それは客観的に存在している。我々の生きる世界は物理原則によってのみなり立っているわけではない。確かに我々の感情は、脳のホルモンや伝達物質によって確認できるかもしれないが、我々の持つ精神力や内面性は物理学的に再現できないであろう。思考力を持ったロボットが作られたとしても、それは人間ではなく、ものでしかない。
問題は、我々が自然科学やテクノロジーの名の下に、人間の内面やその価値観というものを相対的に自然科学的な価値以下のものとかんがえるようになってしまったということである。モノ信仰が強まり、目に見えない心が行き場を失っている。我々はモノを精神よりも優先し、崇拝するような、バランスを失った現実の見方を逆転させる必要がある。科学が言うことは、科学の領域においては正しいことかもしれないが、それは現実を構成する様々な要因に一つに過ぎないし、そこで考慮されていないことが遙かに多いと言うことを常に念頭に置く必要がある。例えば、数学の原理はその領域においては、正しいにしても、それを単純に社会問題に当て嵌めようとは誰もしないだろう。現実は遥かに複雑であるからだ。新コロナ対策でも、医学的に見れば無論家にとどまり、人と接触しないことは重要である。しかし多くの商店や企業が収入を失い、家に閉じ込められた人々が精神的な安定性を失い、争いが起きる。学生たちは同級生と会えなくなり、社員同士は日常的な打ち合わせができなくなり、モティベーションが低下する。これは医学者が純粋に感染防止を考える枠を越えている。経済や社会、心理、政治など様々な領域の人々の考えが必要となるのは明白である。無論医学者を批判するのは的外れと言わざるを得ない。また医学者も自分たちの主張のみが唯一のものであるとは考えていないはずである。
自然科学的世界観の限界
自然科学やテクノロジーは、我々の社会の構造や運動を、物理学が事象の原理を説明できるようには説明できない。社会構造は一つとして同じものはないし、常に変動し続けるからである。また、宇宙空間ならばともかく、人間社会には人間がいて、上に述べたように多元的な社会生活が営まれている。物事を一元的に見、一元的に管理することはできないのである。そして人間は医学的、生物学的には部分的にその対象であるとしても医学、生物学が人間を完全に解明する事はできない。それらの学問は明確にその限界を持っている事を我々は認識せねばならない。病気や傷の治療は一つのきっかけを与えるかもしれないが、それでその人間の人生の問題すべてが解決するわけではない。インターネットにより仕事効率が上がったとしても、仕事の負荷は更に増大し、負担が軽減されるわけではないだろう。
非実証的な原理としての想像体験
自然科学やテクノロジー信仰から離れて、我々はもっと目に見えない価値を見直す必要がある。かつては大きな力を振るいながらも、現在は単なる暇つぶしとしてみられがちな芸術、例えば文学について考えてみよう。
文学はテクノロジーと比べると既に長いこと実用性のないものと考えられるようになった。もはや文学は娯楽やストレスの発散にひとつの手段でしかない観がある。我々の多くは、暇があればネットのニュースの断片やSNS上で情報をチェックする。文学を読むのはかなりの時間と覚悟が必要となった。大学生のうちで一日で全く読書をしない割合は48%(2019年度のUnicoopの大学学生調査)、文化庁の2018年の一般の世論調査では、47%が一月に一冊の本も読んでいないとされている。しかしながら、逆に見れば、半数の人が本を読んでいるということでもある。こうした本を読む人の内でも、六割ほどの人が、文芸書を読んでいるとされている。こうしたことは単に、現実逃避や暇つぶしとして無視される傾向にあるが、全く違った見方をする必要がある。つまり、自然科学やテクノロジー信仰がこれほど地球上を覆っても、人間の空想や想像というものは人間にとって必須であるということである。これは小説や物語だけではなく、映画や演劇、コンサート、あるいはテレビ、ビデオ、漫画やアニメーション、ゲームについても当てはまる。機械はアルゴリズムに基づき、命令されたことを繰り返す。しかし人間の気持ちは潜在的に逸脱を夢見る。それは非日常への憧れでもある。しかし機械やテクノクラート、あるいは社会変容による労働環境の悪化による社会管理が厳格になればなるほど、内面の自由さは奪われ、人間の精神は抑圧され、苦悩するようになる。人間の心や精神は解放されようとする。それを解放してくれる一つの手段が、文化的な経験なのである。
分断を生み出すグローバル化
問題は、グローバル化が本当の意味での世界の多様化を生み出すどころか、特定の地域的な価値観を他の社会に次第次第に強制する怪物に過ぎなくなっているということである。それによって世界の各地域における多様性が脅かされ、それが逆にナショナリズムやセクショナリズムを助長し、地域間の紛争や対立を生み出している。そうした空洞化したグローバル化を生み出しているのがまさにテクノロジーであり、それに基づいた金融や経済なのである。確かにテクノロジーや貨幣は普遍的でありうる。しかし人間の文化、習慣、価値観、感情は異なっている。そして、テクノロジーや貨幣はそれ自体で自律的に機能するわけではなくて、特定の文化的、価値的な文脈の中でのみ機能することを忘れてはならない。その枠が忘れられてしまえば、テクノロジーや貨幣はその社会を破壊しかねない。何世代に渡って好きなだけお金を使い続けても使い切れない人間と、医療保険すら払えない極貧の人間が同居する国家。国家を統治できない統治者の支配する国から逃れるために、絶望の内に自分の国を見捨てざるを得ない人々と、そうした人々を無視する裕福な国家。こうした問題をテクノロジーは解決できない。というのもこうした問題は、権力者の原始的な欲望や金銭への執着に起因するものであり、自然科学的な原理に基づいているわけではないからである。自然科学的に権力者の脳を分析しても意味はない。それは単に個人の問題ではなく、社会的政治的経済的な文脈の中でようやく捉えられるものであるからだ。我々はテクノロジーと人間の生を混同すべきではないし、テクノロジーは人間社会の構成要素の一部に過ぎず、人間の心や精神というものこそが中心であるということを再認識する必要がある。IT企業が世界を救うなどとゆめゆめ考えてはならない。我々に必要なのは、IT企業の描けないビジョンであり、機械の支配しないよりよい人間の社会である。