我々はグローバル化の中で様々な情報にアクセスでき、様々な事を時間や手間をかけずに知る事ができるとされている。多くの人がグローバル化やIT技術の進展を讃え、新しい時代の到来を祝福しているように見える。しかし本当に我々はIT技術のおかげで、より広い知識を得る事ができ、よりよく世界のことを知るようになったのであろうか。その結果我々にはどのような変化が生じたのであろうか。
社会を変えた立役者として現在大きく騒がれているのはGAFAを初めとする、様々なIT関連のグローバル企業である。検索、スマートフォン、SNS、ネット販売を提供するこうした企業に共通しているのは、世界中に張り巡らされた膨大なインフラを利用した情報の交換である。その情報交換を可能にするデバイスを売り、そのデバイスによって可能となった情報交換によって商品を売買し、顧客のデータを回収し、ビッグデータとして解析し、それを顧客分析や販売に利用するというサイクルが成り立っている。
つまりこうしたIT企業は、人類をさらなる地の高みへと導き、より幸福にすると言う使命を帯びているわけでもなく、ひたすら商品の売買や宣伝費を稼ぐことによって膨大な収益を上げている収益優先の企業に過ぎない。一見ただのSNSのプラットフォームを提供したり、検索エンジンを使用させたりするのは、善意からしているわけではなく、それによって膨大な収益を上げることができるからである。例え我々がどんな意味のある重要な事をFacebook に書き込もうと、内容は企業にとってほとんど意味はない。意味のあるのは、いつどこで誰が誰に向けてそのプラットフォームを利用し、どんな検索をし、それが更なる商品の売買にどうしたら繋がるのかということに過ぎない。
こうした企業はまた、自分たちの構築したグローバルなネットワークと、それを利用した独占的な市場で得た巨額の資金を基に更に新たな事業を次々と拡大することができるし、それまではネットサービスとは関係のなかった企業に自らのサービスを利用させることで更に収益を高め、その独占的な立場を強固なものにしうる。
つまりこうしたネットワークに基づいたグローバルな企業がしていることは、新しい価値や知識自体を生み出しているのではなくて、新しいIT技術に基づいたデバイスを売り、地域的、制度的に拡散が難しかった情報をネット検索という技術でアクセス可能にしたということである。しかしながら、その提供される情報量は多くなったが、一体どれほど本当に意味のある情報があるのかということを考えることが必要であろう。
というのも、ネットの情報の多くがコピーか、基の情報の焼き直しでしかないことが多いし、更に多くはデマであったり、根拠のない主観的な主張であったりする。無論、SNSを利用し、日常的なコメントによって繋がり合えるという感情が生み出されることはよいことかもしれない。しかしながらSNS上で十分な議論をすることはほとんどない。今日の天気やどこかの国の人口や、誰か著名人の噂を確認することは容易であるかもしれないが、人生の意味についてネットで答えを期待する人はいないであろう。そうしたことについては、自分で考えねばならない。自分が抱える親子関係や夫婦の問題についての解決はネット上には存在しない。参考文献ぐらいは見つかるかもしれないが、結局そうした問題は、我々が自分で解決せねばならない。要するに、我々が今生活する人間として本当に必要な答えは、ネット上には存在しないし、そもそもそんなことを誰も期待してはいないだろう。要するにネットの情報は、あくまでアトランダムに拡散された情報であって、我々個々人の切迫した要求に向けられて発信されたものではない。多くが利益の誘導のためか、自己顕示欲のせいに起因する。人を救うためにネットの情報を発信している人間がいれば、余計なお世話といわれかねないし、そんなことはそもそも不可能であろう。生は個別的なのである。
結局の所我々がネットを日常的に見るのは、仕事でなければ、暇つぶしである。昔であればテレビを見たりラジオを聞いたりということが、ネットという別の娯楽に置き換わっただけである。それは人間の行動を変化させることはあっても、人間の質や世界観を向上させるわけではない。情報を拡散する技術は高速化し、世界中に拡大しているが、それによって伝達される情報自体がより多く生み出されるどころか、新しい情報源である新聞社は減少し、職業記者は減っているように、却って減少している。自然と情報の中身は薄められざるを得ない。
本当に必要な知識、自分が職場でどうすれば認められるのか、人間関係を維持するにはどうしたらよいのか、家族との関係を改善するには何が必要なのか、今の苦しみを乗り越えるには何が必要なのか、こうした情報はネットには存在しない。むしろネットはそうした深刻な問いかけを回避する時間稼ぎのための道具として寧ろ利用されており、本当の問いかけを妨げる道具になっているのではあるまいか。ネットを閲覧することによって我々がグローバル化されることはないし、世界市民になれるわけでもない。我々は寧ろ、よく指摘されているように、逆に聞きたい情報だけに囲まれることによって蛸壺にはまってしまうのである。その結果世界の全体が見えなくなってしまう。
IT技術とその信奉者たちが主張する世界は、極めて個人的な情熱によって生み出された歴史を欠いた一面的な世界である。IT富裕層にとって世界は素晴らしいところかもしれないが、世界には貧困の中に暮らす人間、国を追われて悲惨な難民として暮らしている人々、戦争の中で明日のことも分からない人々のほうが遙かに多いのである。世界人口の数パーセントでしかない富裕層が主張する世界が、世界の大部分を占める貧困層に共有されると考えるのはばかげている。実際世界的な企業は、世界各地に拡がり、多くの既存の仕事場を閉鎖させ、多くの人々が雇用保障の不確かな下請けとして、安い賃金で働き始めている。
結局我々が必要なのは、ネットによる人間の質のグローバルな向上やIT技術による人々の抱える問題の解決などといった約束を無邪気に信じるのではなく、自分自身の問題解決能力を自分で高めなければならないのである。こうした点に関してはIT技術は妨げにはなれ、何も助けてくれない。事実多くの人は精神的な空虚さを感じ、精神的な支えの必要性を感じている。それは既存の思想であったり宗教であったりする。過激な思想の広まりは、思想風土の空虚さの反映でもありうる。IT技術者の語る素晴らしい将来は、過去の思想や文化遺産の意味を相対的に封印しつつある。過去よりも未来の方が希望に満ちていると考えられるようになったからである。しかしそのことにより、我々は自分たちの出自を見失い、自分が何物なのか分からなくなり始めている。
しかし過去は価値のなくなった紙切れではない。過去は未来でもある。我々はこれまで、過去を見ることによって将来を見通してきた。我々は今でも昨日までの記憶と行動によって今日も生活している。過去は未来に向かう羅針盤なのである。羅針盤がなければ我々は将来という海で放浪するしかないであろう。人間がIT技術によって、突然新人類に生まれ変わるわけではない。人間にはそれぞれのアイデンティティが必要であり、それは個人的な経歴や過去の記憶によって形成されるものである。IT時技術とは何の関係もない。
結局、我々は過去の祖先たちが長いこと営んできた営み、どのように生きたら良いのか、どうすれば我々はより幸せに生きられるのか、といった困難な問いから逃れることはできそうもないように見える。