外国人観光客と日本的モラル

最近京都で、ある日本におけるツーリストブームに関するシンポジウムに参加したので、それについて考えたことを書いてみたい。

日本への外国人旅行客はJNTOによれば、2018年で3119万人で、アジアからの観光客がおよそ2621万人である。トップは韓国で838万人、二位が中国で754万人となっている。欧米の中ではアメリカが152万で他の訪日者の多いいくつかの西洋諸国の2,3倍となっている。2010年の訪日外国人数860万人と比べると8年間で3.6倍ほどに大きく増加した。観光客は特に東京や大阪、京都などの特定地域に集中している。シンポジウムでは旅行客がお寺の境内や通りに溢れ、観光バスのために道路事情が悪化し、それに対応するために駐車場や看板が必要となり、あるいは宿泊施設の増加のために町並みが変化し、店の外観や商品自体がキャッチィなものに変化している事が報告された。そうした問題を抱えている観光地は、客を別の観光地に分散させようとしたり、入場者を制限するといった対策を考えようとしている。また単なる観光客の増加が、その観光地での消費を増やすわけではないという問題も指摘された。

しかしそれにも増して問題化されているのは、観光客のマナーである。あるアメリカ人の報告者の一人は、観光ポリスを導入し、外国人旅行者にアドバイスをしたらどうかと提案した。所構わず大きな声で話したり、ルールを無視して入るべきでないところに立ち入ったり、食事のマナーの悪さ、駅で並ばないで割り込んだりするということらしい。このようなことはネット上の議論でも良く見受ける意見である。

しかしこうした意見には様々な矛盾や問題がある。まずこうした振る舞いがすべての旅行者に当てはまるわけではないし、例えそうした事があったとしても、その人がいつまでもそうした振る舞いをするわけでもない。つまり彼らはその国の習慣を多くの場合学ぶのである。もっと深い次元での問題は、そうした外国人がわざと悪意でそうした振る舞いをしているわけではないということである。それぞれの文化はそれぞれの振る舞いや習慣のコードを持っていて、それはその人物の属している社会にあっては合理的なものと考えられている。異なった文脈でそれまでの自分の振る舞いの差異を疑問視しないで行うことによって、他の文化的なコードを持つ人間にとって違和感が生まれるだけのことである。それは悪とか不道徳とかいう問題とは異なる。不道徳とか悪というものは、自分行動圏の倫理的コードを認識していて、それを敢えて犯すことである。外国人旅行者の違和感を生む振る舞いはそうしたものとは異なっている。通常そうした場違いな行為は自然と、あるいは何らかのきっかけで多くは認識されるものである。実際長く暮らしている外国人は日本人以上に日本社会におけるルールに気を遣う場合もある。

以前日本の政府が日本の基準に合った寿司店だけを正規の寿司店として認定しようとするスシ・ポリスの制度を作ろうとして国外から笑われたが、自分の倫理観や価値観のみを絶対的なものとして疑おうとしない態度の方がむしろ問題ではないか。社会的なルールは相対的なものであり、別の文化的な価値観の中では意味は違ったものになる。日本人は日本にいれば自国人であるが、外国に行けば外国人となるのである。そして外国では日本的な習慣や社会的な価値観は異なった意味を持つこととなる。日本での丁寧な行為が、不快なものと見なされたり、意味不明なものと見なされたりすることもあり得るであろう。逆もまたしかりということもある。

問題は自分の価値観を他文化の背景を持った旅行者に押しつける事ではない。むしろ我々はなぜその旅行者がそうした振る舞いをするのか、その旅行者の文化的社会的背景を考えながら意味づけることが遙かに重要であり、例えばそれは日本人にとって、自分の一元的な文化観を相対化する機会になり得るのではないであろうか。加藤嘉一は「中国人は本当にそんなに日本人が嫌いなのか」という本の中で中国人がなぜ家の外では個人主義的に振るまい、家の中では異なった振る舞いをするのか議論している。それによれば中国では社会的行為のルールが共有されていないために、自分を守らなければならないから個人主義的な振る舞いが必要なのだと、と述べている。こうした国民文化論が単純に当てはまるわけではないと思われるが、社会的な背景の差異を考慮することによって他者の理解をしようとする努力は、自分たちの文化的な一元論を克服する一つの手段になり得るのではないであろうか。また加藤は、日本人は抑圧的な国家である中国は自由がなく、かわいそうに思っているが、実は自由であるにもかかわらず日本人は目に見えない様々な規則に縛られ自由を自ら放棄し、逆に不自由になっていると述べている。事実はともあれ、こうした議論は我々の固定観念を再考させるには有効ではないかと思われる。このことによって我々は自国にいて異文化のことをより知り得るようになるかも知れない。少なくとも自分の国の文化を別の視点から見ようとするきっかけが生まれるであろう。

外国人に頭ごなしに「日本的」なルールを教え込もうとすることは、無意味なだけではなく、日本人のナルシスティックな感情を増幅し、クールジャパンのような政府の主導するナイーブな、同意に政治操作による根拠のない優越感にたったイデオロギーを醸成するだけである。無論、平等や自由が侵されるような場合はまた別の問題である。