物語るということ
人の話を聞いたり自分の体験したりしたことを話したりするのは人間の本能的な行動であろう。人は何かを知りたがり、話したがる。話をすることは、単なる情報を交換することとは異なる。情報はニュースのように必ずしも脈絡は分からない場合が多く、断片的であることが多い。それは絶え間なく進行してゆく大きな流れの中のその時々の様相であり、終わりのないものである。しかし物語るということは、話がそれ自体で完結するということである。始まりがあり、終わりがある。そこには他者に伝えられねばならない「何か」が含まれている。
物語には色々な種類がある。日常的な物語から、伝記、戦争物、旅行記、怪奇物、SF、ミステリー、探偵物、歴史物、童話など様々である。多くの物語のカテゴリーの中で共通している点といえば、読者がこれまで体験したことのない体験をその物語を通じて体験するということであろう。物語の多くは非日常な出来事であったり、過去に起こった特別なことであったりする。例えその体験が自分の体験に限りなく近いとしても、それは読者にとってつまらない一致とは見なされずに、奇跡的な偶然の一致として、また驚きを引き起こすことになるのである。
人は他者の体験に興味を持つ。そしてその人の口から話を聞こうとする。例え同じ場所に居合わせて同じような体験をしても、そうである。旅行に一緒に行っても、同じ映画を見ても、それについて話をする。その背景にあるのは、自分は独自なものであり、自分の生は自分でしか生きられず、自分の体験は自分でしか体験できないはずであると言う観念を我々は持っているからである。他者の物語を聞くということは、他者の体験を聞くということであり、異質な物を受け入れるということである。逆に他人の話を自分の体験として初めから同化して聞いてしまえば、それは驚きではなくなってしまうことだろう。自分自身がした体験は、相対化して物語ることが容易ではない。また、語り尽くされることはない。それはいくら委曲を尽くしても、纏わり付いたねばねばしたゴムのように心の襞に絡みつき離れようとしない。自分の物語は完結しない物語なのだ。同じ体験でも、他人の口を通して聞けば、自分の体験に距離が生み出され、相対化が生まれる。
一方他人の物語は外からやってくるが、やがて我々の中に入り込む。そして時間をかけながら、我々はそれを自分の物語として同化するようになり、それを自分の物語として取り込んでしまう。他人の物語は、自分の体験ではないにもかかわらず、いつしか自分の体験となってしまうのだ。我々はそれに後ろめたさを感じる。それはある意味で自分のものではない偽物であるからだ。しかし我々はそれを敢えてする。我々はそれが自分の経験を膨らませ、自分自身を成長させてくれるからだ。
そもそも我々の体は一つであり、我々の体験の幅は極めて限られている。一方我々は物理的に大きな世界に生きているが、その世界のことは自身ではすべて知り得ない。我々は他人の体験を聞くことによってしか、世界についてより多くのことを知り得ない。普段我々はニュースを聞いたり、ネットで断片的な情報を得ることができる。しかし我々が最終的に知りたいのは、個々の知識なのではなくて、世界の構造なのだ。それは断片ではなく、ある人間がある出来事をどのように経験し、理解したかという、その人の世界観と関連した解釈なのである。それを聞くことによって我々は「事実」とともにその人を通した世界の在り方を経験することができる。単に戦争や自然災害が起こったことを歴史的なデータとして知っていたとしても、それは私の経験とはならない。それを体験した人の目を通して、私の中に取り込まれ、私の経験として取り込まれるのである。それが物語の存在意義である。
そもそも完全に中立的で客観的な情報というものはないし、あったとしてもそれは意味が無い。なぜならそれは体系づけられないていないからだ。すべての物事は体系づけられることによって意味を獲得する。数学的なデータも、体系が無ければ何の意味も無い。とりわけ歴史的、文化的、社会的な出来事に関しては、体系性は曖昧であることも多いし、会ったとしても妥当性が限定的である。その分体系との関連づけがいつも重要となる。
ある社会において良い意味を持つ事象が、他の社会においてはそうは解釈されない、あるいは全く意味を持たないこともある。ちょうど東西の壁崩壊時にドイツで起こったように、ある国でとても重要であると見なされたもの、例えば軍人の名誉の勲章が、時代が変われば、蚤の市でわずかな値段で売りに出される。また歴史観は人によって異なるし、同じ事象についてもある人にとって喜ばしいことが、他の人にとっては悲しみの種にもなりうる。しかしいずれにしろ、出来事は人を通して語られることによって良くも悪しくも、何らかのバイアスを与えられ、それによって初めて意味を与えられ、生きたものとなる。そこにはその人の価値観や人生観が織り込まれるのだ。
しかしそれは多くの場合、漠然として不明瞭である事が多い。長い物語を読んだとしても、一体それが何を意味するのか、我々には分からないことが多い。それは物語のメッセージ性が弱いというよりは、解釈する側の問題でもある。歴史的、社会的価値観の違いなどによって伝える側と、それを受ける側の前提や期待が異なれば、意味の合意を探すのは容易ではない。例えば我々が万葉集を読んで見ても、当時の人々が感じたような感情を我々が感じることはないであろう。しかしそれでも我々は言葉によって、現在との差異自体を面白く感じ、歌への情熱や、その向かう先の彼方に示される何物かに感動を覚えることもできる。物語を読むことは他者と向き合うことであり、それと対峙し、それとの対立や同意の過程の中で学び、自分自身を変化させる場なのである。