我々の社会ではテクノロジーの重要性が増し、テクノロジーはエンジニアや科学者を頂点にする新興宗教のようになりつつある。しかしながら同時に人々はそれが空虚なものであることも感じ取っている。テクノロジーは終わりのない進展を必要とし、究極的な目標もなく、人間に心の安らぎや精神的な平和を与えてくれるわけでもない。人間はその本質を失い、行き場を失いつつある。遺伝子技術や脳科学によって神は改めて死んだのである。人がこれまでの宗教をもはや信じられなくなり、人々の信じることのできる精神的な存在が失われれば、人々はその代わりをどうにかして探そうとするだろう。

こうした冷めた人間観と人類の将来への幻滅は、様々な政治的、経済的な変化によって一層強められているようにも見える。2010年に始まったチュニジアの反政府デモは、23年続いたベンアリ政権を倒し、将棋倒しのように2011年2月には約30年政権の座にいたエジプトのムバラク政権、ヨルダンのサミール・リファーイー政権、8月にリビアのカダフィ政権、11月にはイエメンの政権が倒れるきっかけとなった。他の国でも憲法改正が行われ、民主化への流れがアラブ諸国でも拡がるかに見えた。しかしながら、2012年にはシリアが内戦状態となり、2013年にはエジプトは軍によるクーデターにより民主主義への道は挫折し、シリアやリビアを中心にISが勢力を拡大し、リビアやイエメンでは内戦が勃発した。その結果としてアラブ、アフリカ諸国の政治は不安定化し、経済的にも困窮した人々は大量の難民となって国内国外に避難流出することとなった。また結果としてこうした難民を大量に受け入れざるを得なくなったことで、先進国は危機感を強め、次第に排外的な政策に舵を切るようになった。それはまた国内の排他的な人々の行動を活発化させ、国内における政治的な対立を産むきっかけともなったのである。こうした世界の混乱は、当事国のみならず、先進国にも将来に対する不安を増大させたことは明らかである。

更にこうした歴史的な人間にかかわる価値観に大きな変化をもたらした象徴的な事件は、民主主義国家の牙城と考えられていたアメリカにおけるトランプ政権の誕生である。一介の実業家に過ぎない人間がその排他主義的、人種差別的な発言により話題を集め、超大国の大統領となった事は、多くの人を驚かせたが、むしろそれはこれまで形成されてきた人間観への懐疑への強まりがようやく顕現したものと考えられる。彼は殆どあらゆる民主的、科学的な価値に反した決断を下し、歴史的な近代的啓蒙主義的な流れを遮断しようとし、多くの人がその決断に同調したのである。それは単に彼のカリスマ性というよりは、多くの人がすでに感じていた不安、経済的、とりわけ精神的な基盤が失われ、異質なものに脅かされているという不安に基づいているといえる。具体的には、移民の増大や、これまで無視され続けてきた様々なマイノリティの人々の権利の承認要求、例えば、男女同権の強まり、女性の各分野での活躍、人種問題への積極的な対応、スパニッシュ系の人々の増加、LGBTQの権利の増大など長い間抑圧されてきた多様な人々の権利が社会を急激に変えてきたという事実があるだろう。こうしたことはすでに長い間進行してきたが、実際社会に長い間根付いてきた伝統的な価値観を本当に変えるには至っていななかった。表面的には理解を示している人々も、やはり昔の価値観に引きずられている部分が多い。それは日本における自民党を見ればよくわかる。夫婦別姓は長いこと議論されているが、何の解決も見いだせず、ましてや同性婚に至っては論外ということのようにも見える。世界の潮流から何十年も取り残され、時代遅れの政党に見えるこの政党がいまだに政権を担当しているという事実をよく考える必要がある。それは政党だけの意思ではなく、国民の意思なのだ。またアメリカのように多様性の価値というものが部分的に合法化されたとしても、反対する人々は決して妥協せず、執拗に反対の意思を表明し、そうした不満は何かの拍子に弱者への暴力となり、あるいは極端なイデオロギーとなって、人々を結束させる。警察による黒人への暴力や銃乱射、議事堂襲撃は、ヨーロッパで生まれたとされる啓蒙の歴史がいまだに成功していないという証左であるか、あるいは啓蒙の魔法がその力を失ってしまったということなのかもしれない。

人権や平等、平和といった啓蒙期以来の重要な考えも、ある意味で人間の奥底に生き続けている原始的な欲求の下では往々にして意味を持たない。他性を支配したり、政治的経済的に弱者を生み出す階級社会を作りながら、女性支配を神の名のもとに正当化したり、能力主義や慈善行為という美名のもとに搾取を隠蔽するといったことは、単にタリバンやイランにおける女性の支配、多くの経済的な二極化が進みつつある先進国の一部の人間の問題ではない。近代化され啓蒙化された社会が人間の原始的で家父長制的な欲望を忘れ去ったわけではなく、それは未だに我々の中に厳然として日常の中に生きているということであろう。唯そうした剝き出しの欲望をそのまま外に現わさないように、宗教的、あるいは同時代的なレッテルを利用しているだけに過ぎない。富は欲望を自由に行使させてくれる。とりわけ自然科学的な物質主義や科学技術によって人間の尊厳が幻影のように消えようとする時代にあっては、人は他者を排除し、自己中心的に振舞おうとしても良心の呵責を感じなくて済む。困難な環境に生まれた人間は、運が悪いのであり仕方がないのだ。自分の運が良ければ、それに感謝して自分を守ればいいし、他者を気にかける必要はないのだ。なぜ自分で稼いだ金を他人に分け与えねばならないのだろう。こうした考えは、自己実現だけを唯一の目的とする欲望にとっては当たり前のことである。これはテクノロジーの理念とある意味では共通している。科学技術は限りなく自己実現を達成しようとし、それが人類に益をもたらはすか災いをもたらすか、そうした倫理的な側面を科学技術者は考慮する必要がない。それは彼らの課題ではない、彼らによればそうしたことは利用の仕方によるということなのだ。科学技術の自己実現は直線的であり、欲望と同様に終りはない。

一方、倫理は他者との関係を絶対条件とする。倫理は他者の利益を考慮するものである。それは他者が目の前にいようが、いまいが関係がない。元来倫理は欲望にとっては必要でないものであったかもしれないが、相互に相手を考慮しない独善的な関係から生じうる敵対的な対立は、どちらにとっても不利となる。そのため複数の人間が生を円滑にするための必要条件として倫理が生まれる。社会は倫理を生み出す。倫理は自己の欲望の完全な実現を妨げるとしても、結局他者との対立を減少させ、自分の身の安全を高め、自己の利益になるからだ。しかし科学技術信仰の社会の流れの中で、倫理が希薄になっているということは、人間間の関係が希薄になっているということであり、その関係が変化しているということでもある。人間は社会活動をする以上人と関わらざるを得ないが、その関係はどのように変化しているのであろうか。

倫理的関係と一口にいってもそれは簡単ではない。宗教の要請する倫理は、人間相互的に普遍的で対等なものであるが、現実の倫理的関係は、対等な関係を前提としない。現実の社会では、倫理的関係は人間相互の権力関係と関わっている。力のある者が、相手に対してより有利な関係を確立し、維持することができる。それは政治的優位であったり、経済的優位であったり、社会的優位であったりしうる。より弱い立場の者は、より多くの倫理的規制を受けることになりうる。また倫理的関係は、人間間のコミュニケーションの仕方に大きく依存している。人間は他者と直接話すことによって相手の人格や考え方を知り、それによって相手が自分をどう評価しているのか、自分は相手をどう評価したらいいのかを知ることができる。自分が相手にどのように評価されているのか、それが正当な評価であるのかは、我々の尊厳にとって重要なことであり、倫理的関係を形成するための基盤となるものである。しかしそもそも対話自体がその都度その都度の対話者の関係によって力のアンバランスを生み出しうるし、更に対話者同士の社会的なパワーバランスがそこに介入してくることが考えられるので、対等な倫理的関係を維持することは簡単なことではない。

更にこうした倫理的関係形成においてもテクノロジーは、影響を与えている。今更言うまでもないが、現在では、オンラインによるコミュニケーションが我々のコミュニケーションの多くを占めるようになった。家族や友人とのSMSでの連絡、ネットショッピングや、仕事におけるデジタル情報処理の増加、オンラインの会議、就職や試験での面接までもオンラインで行われる。他方では、ネットを通じた犯罪が個人的なレベルから、国家的なレベルに至るまで報じられている。顔の見えない相手、そもそも存在するかどうかわからない相手に代金を支払ったり、情報の全くない相手とどこまで本当に考えていることを話し合えるのだろうか。情報工学的な視点から見ると、情報さえ伝達すれば十分だとみなされるのかもしれないが、人間のコミュニケーションにとって情報の交換はコミュニケーションという事象全体から見れば、一つの小さな要素でしかない。重要なのは会話を通して、その人物との倫理的な関係を確立し、長期的な視点に立って世界との連関を形成することなのだ。政治的な大きな交渉もその対話相手との個人的な倫理関係がなければ空疎なものになるであろう。現在におけるもっとも大きな倫理関係における問題は、テクノロジーを介したコミュニケーションの一般化によって、相手が匿名の存在となり、希薄化していることである。希薄化した相手と意味のある倫理的関係を形成することは難しい。そしてこのことが、我々の社会における倫理を崩壊させている原因の一つであろう。

SNSでのメッセージのやり取りは、対面でのコミュニケーションの代わりとして考えられ、時には人間同士がいつも繋がれるより連携の有効な手段として考えられてきた。しかしこうしたメッセージの交換は、話し相手の実在の曖昧さのみならず、タイムラグや場の共有が欠如しているため、現実感の喪失を感じさせ、意識下でのストレスを生み出す。それは結局バーチャルであり、現実の対面による対話とは全く別物であり、それの代替えにはなりえない。しかしこうしたメッセージのやり取りが対面での対話と混同され、それにとって代わり一般化するのか、あるいは対面での対話とは別の選択肢として認識され、共存するのか未だ曖昧である。いずれにしろ人が目の前にいない場合、人は対面においてほど真剣に向き合う必要がないので、自己責任感をさほど感じなくなる。とりわけ誹謗中傷や炎上のように他人に対しては無責任になる。SNS上は基本的に私的な空間であり、社会は遠い。従って倫理は真剣に要求されないのだ。

このように科学技術は、多元的な意味において、倫理を排除するように機能している。倫理を監督するものが誰もなく、誰もそれを気に留めようとせず、そもそも倫理が失われつつあることに気づきもしないのである。すぐにでも世の中の問題は科学技術によって救済されるという見当違いの科学技術への共同幻想が多くの社会を覆いつくしている。これはとても危険なことなのだ。

4. 技術の論理と倫理