我々はいつも幸福で満ち足りた生き方をしたいと考えているし、同時に他人もそうであってほしいと考える。しかしながら現実においては我々が本当に幸せだと感じることはそう頻繁にあるわけではない。逆に自分の不運を嘆いたり、他人の幸せをうらやむことが多いかもしれない。多くの人が仕事を持ち、パートナーや家族を持ち、衣食足りている状況だとしても我々はもっと幸せになれるはずだと考える。そして満たされていると考えるよりも、欠けていることにより注意を払い、自分の幸運に気づかないこともある。
それは戦争や自然災害の中に生きる人々のことを考えればよく分かる。戦争の中では食べるものも、住むところもない。家族は何の理由もなく殺されたり離れ離れになり、恐怖の中に日々生きなければならない。生命を維持することすら難しい極限の状況の中で生きることを強いられる。自然災害においても、突然これまでの生活が一変し、当たり前のことが当たり前ではなくなる。むろんこうした極端な状況を生活の基準に置き、だから我々のように平和の中に生きる人間は皆幸福だと思わなければならないというのも正しくないだろう。幸福は相対的なものである。戦争の中でも人は幸福な瞬間を感じることもあるかもしれないし、裕福な社会の中でも人々は不幸でありうる。つまり物理的な幸運が必ずしも精神の幸福感をもたらすわけではないし、物理的な欠乏が必ずしも不幸ばかりを感じさせるというわけではない。
幸福感とは精神的な状態であり、我々の精神が要求する基準に我々の状態が達しているかどうかが問題となるだろう。そうであれば、人は要求の基準を満たせばいつでも幸福感を感じるということになる。そうはいっても絶対的貧困は絶対的な不幸でもあるし、戦争のような極限状態は容認されることはできない悪である。平和で比較的豊かな社会に生きる人間は、ある意味での幸福を感じるに近い条件の下にあるといえる。それでもなぜ平和でそれなりに豊かな国に住む我々は自らを必ずしも幸福だと思わないのだろうか。それは矛盾しているようにも聞こえる。
この矛盾の一つの原因は、恐らく我々が経済的物理的豊かさが、人間の精神の幸福感と直接連動し、正比例関係にあると多くの人たちが考えていることにあるのではないだろうか。経済的に豊かであれば我々は幸せになれる。バブルの頃は多くの人がそう思い込み、人々はひたすら家庭も顧みず会社のために働いた。しかしながら、実際には、家族の繋がりは薄れ、多くのサラリーマンは過労やストレスにさいなまれることとなった。経済的豊かさと幸福、この二つは実際には全く別のものである。例えば現在では、インターネットやスマートフォーンは他者とのコミュニケーションを容易にし、わざわざ本人があちこち出歩くことなく、用事を済ますことができる。会議や仕事はオンラインで済み、買い物は自宅にまで配達される。洗濯機や掃除機などが登場してからは、我々の肉体的労力は大幅に軽減され、エアコンは日常生活を暮らしやすくし、テレビやSNSは自由時間を埋めてくれるツールとなった。機械やロボットは大規模な農耕や工場での単純作業を容易にし、激しい労働時間を短縮することができるし、自動運転の車によって我々の移動はもっと簡単になるだろう。ショッピングセンターにはものが溢れ、ほとんどなんでも容易に手に入る。とりわけ医学の発達は多くの人の命を救うこととなった。今まで以上の多くの病気が治療可能となりつつある。長寿は多くの国では当たり前のようになりつつある。快適さや便利さ、長い時間が我々に与えられるようになった。
しかしこうしたことは我々の幸福感を準備立ててくれる条件であるかもしれないが、それ自体が幸福であるわけではない。肉体的な負担の軽減や長寿は幸福とは全く別の次元のことであり必ずしも相関関係にあるわけではない。実際健康で肉体的負担の少ない人の多くが皆幸福を感じているわけではないだろう。ロボットやインターネットがどれほど我々の労働力を軽減し、効率化を促進したとしても、それが我々の幸福を増大させるわけではない。我々の社会の快適さの基盤にあるのは、科学技術であり、我々の現代の社会はそれによって過去の社会と際だって異なるものとなっている。しかし科学技術が我々を必ずしも幸福にするわけではないということをよくよく考える必要がある。
科学技術は、概してポジティブなものとして評価されることが多いが、当然のことながら逆にネガティブな面も多く生み出してきた。大量生産を可能にするための大量のエネルギーの消費。それを可能にするための化石燃料などの天然資源の採掘による、とりわけ先進国以外の地域での極端な自然破壊や人的搾取、人権侵害、巨大メジャーの利権の拡大と独占、巨大企業の政治への大きな影響力。またコンピューター技術の発展は金融のグローバル化を容易にし、巨大な資本の流れを瞬時で行うことができるようになり、理論的には誰にでも一獲千金の夢が可能となった。しかし現実にはこれによって、勝者はますます豊かになり、貧しいものはさらに貧しくなる、1パーセントの富者と99パーセントの貧者という傾向が促進されている。日常的な便利さや快適さは、そうしたグローバルな独占的権益構造を覆い隠す幻影でしかないようにも見える。事実、豊かな国々での貧困者の割合が増大するだけでなく、国家間の貧富の差も大きくなっている。
幾つもの国家では、支配者の独裁といわゆる泥棒政治(kleptocracy)により国家が破綻し、何千万という、かつてないほど途方もない数の難民がより豊かな国に向かうことになり、受け入れ側のより豊かな国々の政治風土が排他的になり、極右の傾向を増大させ、政治が不安定化させる要因の一つとなった。そしてこうした状況は改善されず、未だに多くの人々が中東や東南アジア、アフリカ、南アメリカの国々から難民として豊かな国に逃れようとしている。UNHCRによれば、2021年避難民、国内避難民、庇護希望者の総数は8930万人、ウクライナ戦争開始後、一億人を超えたとされている。とりわけ貧しい国は、自国の資源を輸出し外貨を稼いで生き残らねばならない。賃金は低く抑えられ、労働環境も過酷である。そうした人々にとってテクノロジーによる快適さを享受するどころか、生き延びることすら容易ではない。
地球上のいわゆる、先進国の多くは、80年代以降コンピューターが急速に一般化してからというもの、科学技術に対する過度な高揚感に次第に覆い尽くされているように見える。とりわけ巨大企業と政治の世界において多くの人々は将来はIT技術によってのみ発展しうると考えているように見える。例えば、生物化学分野の進歩は、ゲノム解析を皮切りにして、自由な遺伝子操作を可能にし、植物や動物を意のままに変容させることができるとされている。もはや我々の口にする食べ物のほとんどが将来遺伝子組み換え食品に変わる可能性がある。遺伝子組み換え食品は生産性が高く、効率がいいので人口増加による飢餓を救うものとして期待されている。しかしながら、日に日に新たな懸念をも呼び起こしている。とりわけ遺伝子組み換えの技術は、将来的に起こりうる危険性に対して無防備である。モンサントのDDT、グリホサート系除草剤は当初革新的な技術であったとして世間を驚かし世界中で使われたが、結局人的被害や、土壌汚染、種の保存に関してより多くの問題を引き起こした。しかし国際的なアグリビジネスはさらに遺伝子組み換えやゲノム編集の技術の規模を拡大しつつある。こうした反省がなされないままに、次々と遺伝子組み換えやゲノム編集の技術が応用され、新しい製品が市場に出回りつつある。もはや政府はこうしたことに対する規制を諦めかけているように見える。日本においても小麦、大豆、そばなどは9割以上が輸入品であり、遺伝子組み換えの製品を探すのが難しくなるであろうし、またゲノム編集の製品は規制なしで流通しうる様になる可能性がある。
医療の分野では、癌治療などの進展もめざましく、最近は新しい技術によるコロナワクチンの開発によって多くの人々を救うことになったと考えられている。また、環境破壊への対策としての排気ガス規制は、ガソリン車からEVという新たな技術への転換を進めつつある。打ち上げられた無数の人工衛星は、地球上の至る所の情報収集をすることで、車の自動運転を可能にするだけでなく、他国で何が生起しているか、リアルタイムで把握することができる。こうした情報は、天候や地形の正確な把握により災害を予測して人々を避難させることもできるし、農業効率化のための膨大な情報を短時間で収集することもできる。また、現在のウクライナでの戦争にも極めて重要なものとなり、人を殺すことも、救うこともできる道具となっている。
科学技術の発展は、確かにこうして世の中を変えたり、生活を便利にしたり、人を救ったりしてきたが、両刃の剣であることを考える必要がある。科学技術の推進は誰でもができるわけではない。こうした技術革新には高度の知識と巨大な資本力が必要となる。そしてこうしたことができる人々が地球上にそうたくさんいるわけではない。こうしたことができるのは、巨大な資本を持つ製薬会社、アグリビジネス、畜産企業、金融機関、とりわけどの分野にも参入しつつあるGAFAMなどの世界的なテック企業などである。こうした巨大企業は政治に大きな影響力を持ち、政治的な決定権をもつ。例えば、世界経済フォーラムの参加者は、政治家やNGO、学者も参加しているが、五十億ドル以上の巨大企業が多くを占めている。2020年コロナの拡がりを機に、この会議では、環境破壊、自然災害、食糧問題、貧困、病気、非雇用、不平等など、現在深刻化している様々な分野の問題をナノテクノロジー、脳科学、3Dプリンター、モバイルネットワーク、コンピューターテクノロジーなどのデジタル技術によって変革しようという提案「グレート・リセット」が提案され、地球規模の計画が進められようとしている。こうした多国籍企業を中心とした人々はその資金力と政治的な力によって、彼らのテクノロジー普遍主義の考えに基づいて世界を変えようとしている。しかし彼らの考えが、地球規模の問題の改善の名の下に行われるとしても、彼らはあくまで商業ベースの私企業であり、その行き着くところは収益の最大化に過ぎない。しかしこうした小さな政府をも凌ぐほどの資金力のある企業は、相互に結束を強めながら、私的な団体という名の下に、地球規模での変革を決定し、実行する事ができるし、実際している。彼らには国民の代表である政治家によって構成される政府の決定は必要ではない。無論必要であれば、彼らは莫大な資金力によるロビー活動によって政治家を動かし、あるいは政府の上層部に自らの代表者を送り込むことができる。時々政治と対立することはあっても、彼らは何れ政治が自分たちの言い分を聞かざるをえないことを知っている。政治は社会の安定化や発展を目指し、そのためにはIT技術しかないと考えているようだからである。そしてこうした少数の企業と政治家の手に世界の将来が委ねられ、彼らが地球上に存在する大多数の人々の意見を聞くことなく、人類の将来を決定されようとしている。こうして世界的な規模の決定が、一般の人々の手からうばわれてゆく。そして彼らは大きな失敗をしても罪を問われることはないし、問われたとしても幾ばくかの罰金を払い、あるいは別の組織に形を変えて生き残ることができるのである。
全体を見れば、科学技術は我々の生活の表層部分を改善したように見せるのかもしれないが、深層部分では、むしろより本当の問題を悪化させ、深刻なものにしている。それは富の配分の不公正さ、富を独占する人々への不満であり、社会正義への強い疑義である。科学技術はこうした基本的な問題に全くかかわりえないのである。それは科学技術の問題ではなく、人間の精神にかかわることであるからだ。科学技術がこうした基本的な問題を解決することはできないということを我々は十分に認識せねばならない。
しかしこうした自然科学的発想を基盤にするIT技術が貧困や戦争、災害や疫病から環境問題まで一切合切のことから世界を救うという、現在世界中に広まっている考え方は、我々が真の問題に向き合うことを止めさせ、できもしない期待を抱かせ、社会を破綻に導くことにつながりかねない。それは技術だけの問題ではないからだ。災害は、利益を上げるために無制限に自然を破壊し、自分の都合のいい生産物を大規模に生産しようとした人間の欲望の結果であり、貧困は一部の人々が資本を独占した結果である。戦争はある国が他の国にイデオロギーを押しつけ、暴力によって屈服させようとする試みである。疫病にしても人間の一方的な動物の支配や搾取と深く関わっているだろう。こうしたことは科学技術の問題ではない。科学技術が例えば二酸化炭素を無害化する事ができたとしても、化石燃料を使い続けるならば、森林は消滅し、資源は枯渇するであろう。自然科学は問題の対処のための一つの有効な手段であるかもしれないが、それはあくまで一時的で両面的であり、根本の解決になる事はできないのである。我々が幸福を願うのであれば、それを科学技術に委ねることはできない。問題は僅かな数の人々が所有する巨大資本や一部の国の政治権力者が地球全体を支配する構造を変えることであって、富が技術を独占し、更に別の問題を生むという悪循環を断ち切る事から始めねばならない。科学技術は、我々の生活の表面のみを快適に繕い、なされるべき根本的な人間の生活の変化を小手先の技術によって先延ばしにし、災いをさらに拡大する手段でしかないと考えるべきなのだ。