現在、自然科学的、科学技術的な世界観、人間観が人々の思考の中に次第に浸透し、人間が一種の機械としてみなされるようになり、それぞれの人間のもつ独自の精神性が希薄になろうとしている。それに加えて、強力な政治力、経済力を持つ主要な企業や国家が、科学信仰、科学技術至上主義を原理として地球全体を管理しようとしている。我々の生きている宇宙は、すでに神と天使が支配する意味のある空間ではとうになく、ブラックホールの爆発に始まり高速で拡大している、人間の脳のイメージできない、数値でしか表現されない場とされている。宇宙は人間に全く関心を持たず、人間にとって全く意味を持たないものとなり、この虚無が我々の地球を取り囲んでいる。この物理学の冷厳な法則は宇宙ばかりでなく、人間の心も支配していると多くの科学者たちは考えている。シンギュラリティを信じる人々は、自然科学分野のみならず、すべての人間活動について、コンピューターを基盤にしたテクノロジーがその役割を代わりに演じると考え始めている。自然科学の研究分野での膨大な計算や、金融の世界での情報処理、交通機関での応用など、コンピューターはあらゆる分野で利用されているが、そうした情報処理の原理が、人間の精神の世界にも応用可能であるとしている。こうした人々は、恋愛でさえプログラムで可能と考えているのであろうか。個々の人間の持つとされた価値観や存在意義というものは、こうした人々にとってはほとんど意味のないものなのであろうか。あるいはそうしたことは考える必要がないと考えているのであろうか。

現在、AIが小説や論文を書くことが可能になっている。しかしそうした文章によって人間が感動したり、感銘するとしても、それはAIが人間を超えたというわけではないだろう。小説はその作家の生き方や長年にわたって苦闘してきた世界観の表明であるとすれば、その前提になっているのはその作家の個性であり、人間の精神の独自性である。AIがネット上の情報を瞬時に検索してそれをアルゴリズムによって断片化し、形式論理的、統語論的に巧みに組み合わせて文章化することは、それが本当によくできていたとしても、基本的にはプログラムによる既存のデータの偶然の組み合わせでしかない。AIが文章を書いたとしても、そこに個としての実体があるわけではないし、AIのプログラムが人間が意味を理解するように様々な感情を伴う意味を理解しているわけではない。それは結局原理的にはネット世界から収集した情報に基づく剽窃と模倣でしかない。むろん生身の作家も多くの本を読み、それを参照している。しかしそれは文化的財産の継承であり、その発展と考えられ、その作家個人の能力や価値観が反映される。それは剽窃とは異なる。そこには創造性が関わる。

しかしもしAIが人間の手によると見まごうような文章を書いたとして、そうした文章がそれと知られずに人口に膾炙してゆき、人々を感動させ、称賛されるとしたならば、どうであろうか。実際そうしたことはありうることである。AIがネット上を瞬時に検索し、プログラムによって作成した文章は、様々なバグがあるとしてもそれなりの一貫性を持ち、文章上技術的なノウハウに基づいて作成される。誰が書いた文章でも、我々が何かを読んだり、聞いたりするとき、我々はそれほど厳密に話の論理や一貫性をを確認しているわけではない。我々が文章を読むというのことは、我々がそこに書かれている文章のみによって感動させられるのではなく、自分自身の記憶や連想、知識や感情を伴いながら読むのであり、価値を付加しながら読むのである。だから書かれている文章が多少破綻していようと、論理的に矛盾していようと我々はその破綻や矛盾を勝手に修正しながら読んでいる。読むという行為は我々が考える以上に創造的な行為なのである。そうした意味では、文章は読書という個的な体験の一つの道具である。だから同じ文章を読んでもある人は感動し、ある人はつまらないと感じる。あるいは同じ文章を読んでも、年がたつと違った読み方をすることもある。だからネット上の文章でも人間の書いた文章でも、ある一定水準の論理整合性があれば、我々は意味あるものとして読むことができる。

問題の一つは、そうしたAIがネット上からかき集めてきた文章の断片の集成が、どれだけ文化的創造という視点から見て意味を持つのかということであろう。そもそもAIには何かを新しく生み出そうとする意志が存在しない。規則に従って既に存在する単語や文章を別の形で組み合わせるだけに過ぎない。無論、人間の書いた文章がすべて創造的であるわけでもない。文章を書いたことのない学生が自分の読んだ本をほとんど書き写したまま、レポートとして提出するかもしれない。その場合、文章自体は基本的に剽窃に近く、価値がほとんどないかもしれない。しかしながら、その学生の将来的なアカデミックな成長という点からすれば、それは意味があるかもしれない。

もしAIによる文章の作成が便利なものとして一般化し、日常の業務分野ばかりでなく、創造的な分野にもに広く使われることになってくれば、我々の記録や歴史は、ネット上に存在する既存のデータの世界に閉じ込められてしまうことにもなりかねない。僅かな人が、多くの時間と労力を費やし、新たなことを発見したとしても、それがAIによって無断で盗用、細分化、拡散され、そうした創造的な人々の努力は、匿名の闇の中にうずもれてしまう。グーグルのエリック・シュミットはかつて「新聞、雑誌、そのほか紙媒体の企業経営はどうしてもうまくいってもらわないとこまる。なぜなら我々にはコンテンツが必要なのだから」と言ったが、これはネット時代の知の独自性、創造性のあり方を象徴している。グーグルは自ら何か生み出すわけではなく、常に誰かが生み出した新たなニュースを断片化し、コピーして配布するのみだから、彼らにとってオリジナルのニュースソースは重要なものなのだ。ネットの社会は、すでに多くの部分が剽窃によって成り立っている。しかし、将来これに輪をかけて、AIがあたかも創造的なふりをして、文章を書き散らすことになり、それが我々のあらゆる分野で常態化すれば、もはやこれまでのように独自な形で取材したり、研究したりしてきた成果は、相対的に価値を失い、我々の社会は、今まで以上にフェイクの情報にうずもれてしまうであろう。