こうして現在日増しに強くなる科学技術信仰に対して、様々な多様な価値観を均衡させ、価値的全体を相対化させるにはどうすればよいであろうか。こうした価値観とは、なかんずく文化、歴史、哲学思想など、いわゆる自然科学的な実証や再現可能性を前提とするアプローチの仕方とは異なる領域と関わる価値観である。すでに触れたように、我々にとって最も重要なことは、生活の便利さではない。我々にとって最も関心のあるものは、我々自身についての価値観や評価であり、精神的な幸福である。現在我々は過度に幸福の前提の一つとしての便利さに目を向けてきた。しかし肝心な価値や幸福自体についてはすでに長いことそれほど注意を向けてこなかった。科学技術的な価値観の中で、これこそがいつか我々に幸福をもたらすものと思い込まされてきた。しかしそこには人間にとっての存在的意味のある価値は存在しない。科学技術は人間に新しい質的価値をもたらさない。核融合や、空飛ぶ車が我々を幸福にするわけではない。科学技術的便利さと精神的な価値観を分離し、全く別のものと考えてゆかねばならない。こうした考えを取り戻すにはまた長い時間がかかるだろう。
我々は一旦価値的な思考を離れると、それに慣れてしまい、その習慣に戻ることに多くの困難を感じることになる。その間に、歴史的連続性が失われ、知の集積が途絶えてしまうからである。例えば明治以降次第に自国文化への関心は西洋文化にとって代わられるようになり、第二次大戦後は明治以前の自国文化への関心や漢文古文の読解力は急速に失われた。ということは、多くの江戸時代の文化が誰かの助けがなければ、読めなくなった、即ち失われたということである。日本の伝統的な芸能文化も急速に鑑賞者を失っている。2015年の文科省の文科系学部不要論は政府の文科系学問に対する価値観を明瞭に示している。文系の授業のつまらなさや有用性の議論は意味がない。理系文系に限らず、面白い授業もつまらない授業もある。有用さについても、基準によって異なるだろう。問題は背後にあるテクノクラシー的価値観であり、その背後にある科学技術普遍主義である。とりわけ、国の豊かさが、科学技術に依存してくると、これに関係する人々の声が大きくなる。しかし、文化的価値が富と無縁であるわけではない。商業活動や観光業は文化的価値と大きく関わる。そこにあるのは単なる富の移動ではなく、他者や異質なものへのイメージや興味が大きく関わる。人々をイメージ操作することは昔からプロバガンダとして行われてきたが、それはテクノロジーではなくて、必ずしも常に科学合理的ではない人間の心理作用が大きい。
科学技術は普遍であり、原理的には国境に関係なく応用可能であると考えられているが、それは現実とは異なる。利用するのは個々の人間であり、これらの人々は、文的価値観を持ち、それによって個々の決定をしている。また地域もそれぞれ固有の価値観を持っている。国によるデジタル技術の利用も、ロシアや中国、アメリカ、ヨーロッパ諸国では異なっている。とりわけ近年、コロナやロシアのウクライナ侵略戦争、台湾問題、イラン、アフガニスタンの政治状況を見れば、国家が一様でなく、逆に多様化している事が分かる。テクノロジーに基づく普遍主義からのみ、世界を見て、多元的な世界を一元的に見るのはどうしたことであろうか。それは単に日本車の売上台数から見て、世界をランクづけするようなものである。かつてGDPが世界の国をランクづけする唯一の尺度であったように、あまりに現実離れしていると言わざるを得ない。
見えないものは存在しないという自然科学的な見方は、見えないものでも数値化したり、物量化できる部分だけは、信じるという、あまりに偏った見方は、事象を全体として当たり前に見るということを歪めてきた。正に、目に見えないものは見ないという考え方が、我々から重要なものをまさに見えなくしてきたと言える。というのも、我々は見えないものによって生きているからだ。信頼や愛情、憧れや悲しみ、配慮や共感、人間同士の関係や社会、民主主義、歴史、世界観や信仰など我々の思考の中にあるものは見えないものである。あるいは脳科学者は、電子的に感情の生ずる脳の部位を特定したり、脳内物質の変化を特定しようとするかもしれない。しかしそれは結果として生じた現象であり、感情や思考そのものではない。科学は歴史や民主主義を物理学的に明らかにすることはできないであろう。
というのもそもそも物理学は、愛や民主主義を論ずるに相応しくないからだ。そうした人間の感情というものは当の個人の精神の中で常に進行中の過程であり、それは常に変化し不安定なものである。しかも増大したり、減少したりするし、消滅したり、抑圧されたりする。これらは本人でしか感じることはできないし、本人ですらそれを正確に特定することは難しいからだ。シンギュラリティを期待する人々があたかもAIが精神を持つように喧伝するが、AIは精神を持たないし、感情や思考を持っているわけでもなく、我々人間が意味を理解するように意味を理解するわけでもない。AIはあくまで人間精神のふりをする擬似的なプログラムであり、AIがまさにできないことが我々の中で生じているのである。
感情や思想といったものは変化し続けるので、最終的に物理的に確定されることはない。従って、自然科学的視点から排除される。たとえ心理学が自然科学的な手法を用いて、心的現象を特定しようとしてもそれも一時的なもの、限定的なものになるだろう。自然科学的な手法は、思想や現実的な感情の探求に向かないのである。それは全く別のレベルの話なのである。中世のリベラルアーツは、七つの分野、修辞学、文法、弁証法、算術、幾何学、音楽、天文学に分かれていた。現在こうした分類は現在の我々に違和感を感じさせるものであるが、とりわけ最初の三つの分野は、重要とされ、説得的に話す能力が人間にとって最も重要であるとされていた。こうした考え方はやがてとりわけ19世紀後半に台頭する産業革命を生み出す科学技術やその世界観に対し、古臭い些末にこだわる意味のない学問として、次第に飲み込まれてゆくが、最終的に20世紀の後半に、非科学的、単なる思弁的な分野として、最終的に意味を奪われていった。
現在における科学技術は、コンピューターの出現により、産業革命時代の科学技術とは、大きく変わっている。現在の科学技術は、単に人間の手作業を減らすだけではなく、計算やアルゴリズムに基づく計算処理速度により、伝統的な人間の精神活動に決定的に間接的、直接的に大きな歴史的変化をもたらした。人間の手作業では到底なしえない膨大な計算があっという間に済ませることができる。これは人間の存在そのものを変えたわけではないが、従来の思弁的な流れに何か途方もない劣等感を抱かせたことは間違いない。そしてそれまでの思想家は、こうした新たな技術革新を包含し、拮抗しうる大きな思想を未だに生み出せないままに来たのである。現在の喫緊の課題は、こうしたテクノロジー普遍主義に対抗しうる新たな思想を生み出すことなのである。そしてこの新たな思想は、自然科学や科学技術が説明できない、思想や理念の意味、人間の精神的な価値や愛情、連帯といったものをも説明できるものであり、自然科学や科学技術全体を人類の名において反省しうるものでなければならない。それは自然科学や科学技術を否定するものではなく、多様な価値全体の中の一部として、正しく位置づけ、それの限界を示すものでなければならない。それは宗教の様なものではないだろう。宗教は特定のイデオロギーを多様な価値観の人々に強要する。それはかつてのマルクス主義の様な政治的なイデオロギーも同様である。新しい考え方は多元的であり、人々に何か一定の思考や行動を押し付けるものであってはならない。
我々は時代の動向に左右され、過去を見失いがちである。しかし人間は歴史を持ち、そこから歴史的意味、ひいては存在意義を追うている。歴史的過去には人間の知の全体があり、それが現在の人間の基礎を形成している。人間は過去から切り離されたら、その存在は希薄になり、歴史的な意味を失ってしまう。人間は過去という遺産の上に成り立っている。過去の人々の考えてきたことはすべて無意味であり、現在の自分たちだけが唯一正しいのだと考える見方は、明らかに独善的であり、バランスを欠いたものだと言わざるを得ない。我々がこれから考えなければならないのは、我々が今何を見失い、科学技術以外の何が必要なのか考えてゆくことである。