前述した世界経済フォーラムの主催者シュバープやそれを推進する多国籍企業の集団、巨額の資金を持つ財団のビル・ゲイツ、アップル、メタのようなテック産業が信奉するのは、何千年もの歴史を持つ人類が産み出し、継承してきた巨大な文化的な遺産を考慮に入れず、あたかもつい最近の数十年間に産み出された科学技術のみを唯一の世界救済の手段であると考える思考方法である。既に至るところで化石燃料のみでなくあらゆる天然資源が掘削され、消滅し、自然破壊、温暖化が進行している中、それに追い打ちをかけるように、こうしたイデオロギーが巨大な資本と結びつき、独善的な計画が推し進められれば、誰もそれを止めることはできなくなる。それが終息するとすれば、その計画が最終的に遂行され、破綻するときでしかない。しかしその時は人類の生存は危機に陥ってしまうかもしれない。

1960年代に始まった緑の革命は、ロックフェラー、フォード財団による援助で進められ、品種改良と化学肥料、農薬の大量の利用によりトウモロコシ、小麦、米などの増産を可能にし、発展途上国の食糧危機を救おうとしたが、最終的には環境汚染や、土壌の貧困化を引き起こし、在来種の96パーセントが失われたといわれ、更に農村文化の破壊をもたらし、長期的な持続可能性という視点から見れば失敗している。

ビル・ゲイツが資金提供しているハーバード大学のスコーペックス・プロジェクトは、成層圏に炭酸カルシウムなどの微粒子を散布して、太陽光を反射させ温暖化を食い止めようとする計画である。しかしながら成層圏に微粒子をまけば、どのくらいの影響が出るか分からないし、その結果取り返しのつかないことになりかねない。この計画の実行は直前になり取り敢えず延期されているが、僅かな人間の意思と巨額の資本が結びつけば、地球全体、人類に関わる問題が、マジョリティの同意なしに行われてしまうことを意味している。しかしこうした気候工学は今後推し進められていく可能性がある。こうした計画も、結局現在の地球温暖化の最大の原因である、化石燃料の使用を制限するのではなく、そのまま使い続けても、テクノロジーが簡単に問題を解決してくれるという考えを広めてしまう事になる。人類がこのまま自然資源を使い果たし、大気は二酸化炭素で充満してもテクノロジーが解決してくれるという期待のもと、人類は見当違いの期待の中で破滅しかねない。それにしても、こうしたすべてをテクノロジーに任せれば、人類はいくらでも好きなだけ資源を使い、快適さを何も諦めることなく、未来も全く安泰であると言う脳天気な思考はどのように生まれたのであろうか。

そこにあるのは、社会を構成してきた多様で多元的な価値観がバランスを失い、科学技術への突出した期待によって、相対的に存在感を失いつつあることにあると考えられる。社会は科学技術によってのみなり立っているわけではない。人間がいて、家庭があり、共同体がある。そこを支配しているのは感情や愛情や精神的連帯である。道徳や社会的ルールはそうした個人的共同体的な人間関係を維持し、護るために存在している。そしてそれぞれの人間の社会にはそれぞれの社会の価値観や伝統や文化というものがあり、それらが人々の生き方に価値を与え、意味を作り出している。政治システムは民主主義国家であれば、富の公平な分配がなるべく可能になるように配慮し、社会的な正義が失われないように監視する。そして経済システムは人々の生存のために物資や食料を生産し、流通し、消費するという流れを産み出している。それらはあくまで人々が生命を維持し、そのために労働し対価を稼ぎ、必要なものを得るための仕組みである。こうしたシステムはあくまで物質的な需要を満たしながら、最終的には人々の精神的生活を支えるために存在している。そうした中で、技術というものはこうした社会のシステムを支える一つの有効な選択肢の一つに過ぎない。しかしながら現在、そうした社会を構成する様々なシステムのバランスが崩れ、上述したように科学技術が一方的に社会を変えようとしている。そこにあるのは、科学技術普遍主義であり、テクノロジー・イデオロギーが世界の一切を取り仕切る事ができるとする考え方である。そしてそこでは技術的な価値観以外の価値、精神的、文化的、ローカルな社会的な価値観、ヒューマニズムは最小化されてしまう。なぜ現在、様々な価値の中でも科学技術こそが唯一の突出した価値となったのであろうか。

周知のように、人間の文化や価値観、倫理、生き方に関わる、人文学や精神科学と言われる非自然科学系の分野が疎んじられ、例えば現実にそうした分野の大学の学部が非生産的であるとして予算が削減されたり、閉鎖されてきたのは、日本に限らず、世界的な傾向である。我々がこうした人間の価値に関わる問題を話そうとしても、利益に結びつかないこととして、技術革新という嵐の前にかき消されてしまう。そうしたことは余暇に勝手に一人で考えれば良いものだとされてしまうのだ。しかし一方では、多くの人はオンラインで仕事をし、アルゴリズムによって仕事を与えられ、そして人は次第に大企業の下請けとなって自立性を奪われつつある。働く人々の心理的なプレッシャーは高まり、多くの人が自分は、いわゆる「ブルシットジョブ」といわれる意味のない仕事をしているのではないかと考えたり、メンタルな問題を抱えるようになっている。民主主義や平和、協調、連帯と言った共通の理念が失われ、一時終了したと考えられていた冷戦が新たに始まり、独裁者が出現し民主主義を崩壊させ、価値観の多様化ではなく、情報統制によって特定の価値観を強制し、価値観の分裂、暴力や差別が公然と行われるようになっている。普遍的な倫理観や価値観は消えつつあるようにも見える。もはや哲学や倫理を議論する公の場所は、分裂と対立の中で時代遅れになり、大声で語られるのは経済的利益、技術的革新のみになってしま五いつつあるように見える。

西洋でも日本でも1970年代にはまだ、人文学への信頼は存在し、多くの文学者、哲学者がものをいう社会風潮があった。哲学や文学は政治的な力を持っていた。戦後から1970年代くらいまで、日本では敗戦後から軍国主義や植民地主義が反省的に議論され、民主主義や学校教育における新たな人格の形成というものが真剣に議論されてきた。またサルトルやボーボワールといった哲学議論ですらも真剣に日本で話題になっていた。しかし80年代になると日本の科学技術的な成功の中でそうした議論は、突如として忘れ去られてしまった。戦後多くの旧植民地が独立し、世界は西洋型の豊かな国家になり得るという漠然とした期待が世界中に広がっていった。内面的精神的な充実よりも、大量生産による物質的な豊かさが必要とされ始めた。経済や産業が火急の問題となった。家庭よりもGDPが重要となり、哲学や文学よりもテクノロジーや金融が重要になったのである。日本ではバブルが訪れ、人々はGDPと科学技術を社会の唯一の指標と考えるようになった。その大きな理由は、上に述べたような、ある意味で輝かしい、目に見える形での科学技術の発展とそれに連動するナショナリズムの高揚であった。科学技術を制する者が世界を制すると思われるようになった。そして日本でも富と快適さがその絶頂に達したようであった。石原と森田の著書「NOといえる日本」はその象徴であった。

しかし科学技術は、地域的な価値ではなく、普遍的な価値であり、ある集団のみが独占し続けるということはできない。それは容易に国境を越えて、進歩し続ける。そして人材や条件が満たされれば、誰でもが優位性を獲得しうる。科学技術とナショナリズムは相性が悪いのだ。一時テクノロジーによって世界的な優位に立ったと思われた日本のような国家も瞬く間にその優位性を失い、経済的にも低迷するようになった。科学技術は富と仲が良く、相乗効果を生み出す。規模が大きいほど莫大な富を生み出す。そこでは一般の人が関わる場所はない。関わる機会があるとすれば、せいぜいSNSの閲覧やネット上でのショッピングがほとんどであろう。広告によって利益を得る人がいるとしても、ほとんどの場合が搾取の対象でしかない。アメリカの大手ITの会社から世界中に拡がったSNSは、多くの人にとってはエンターティンメントの対象であるが、一方企業にとっては莫大な広告収入を得る手段である。閲覧によって個人情報が奪われ、更に周到な宣伝の技術が洗練されるという循環が生じている。テクノロジーは収益を上げるための手段でしかなくなりつつある。SNSで多くの人が暇を潰している間に、プログラマーは収集された個人情報に基づいて、富の最大化のためにアルゴリズムを書き続ける。

急速な科学技術的な世界観の拡がりの中で、人間は物質的な存在として部分から構成された機械のような物と見なされ始めた。人工授精から始まって、様々な外科的な手術の進歩、身体の部分の人工部品への置換え、とりわけ遺伝子やゲノム操作によってかつては神秘的でさえあった生命は、いくらでも人為的に操作できるようになってしまった。こうした人為的な技術観が我々の人間観に影響を及ぼさないはずはないだろう。人間の肉体は原子の集合体であり、ホルモンや伝達物質といった化学物質によって支配され、人間の精神活動は脳という物質的な器官の内部の電子の遊戯に過ぎなくなってしまったのである。人間が自らの精神の自律や自由をいくら主張したとしてもそれはもはやお笑いぐさでしかなくないと見えても不思議ではない。人間が築いてきた崇高な理念である平等や自由、平和や世界との連帯などというものはその神聖さを奪われてしまったのである。どうして我々は単なる物質に崇高さを感じることができようか。

多くの人は物質に貶められてしまった我々の存在を無意識的に感じ取っている。その結果、ある人々は精神的な物の存在を捨て、物質的な世界観に縋ろうとし、科学技術で世界を変革しようとする。一方である人々はそれでもあやふやになった精神世界に縋ろうとし、信じられなくなって久しい伝統的な宗教世界に戻り、そこに失われた意味を見つけようとしたり、あるいは支離滅裂であったとしても、QAnonのようなとにかく宗教的、神秘的に見える別の世界を作り出そうとする。人は精神性を失い、単なる物と化した殺伐とした世界を見たくないのだ。それは退屈すぎ、生きるに値しないだろう。人が求めるのは、未だ自らの知らない世界が存在するはずだという希望であり、自らの知らない世界の意味が未だ存在するという期待なのだ。人間には明確に数値化されたり、先が既に見通せる将来より、あやふやでも、現状を変えてくれるはずの驚きや夢が必要なのだ。それをある人たちはテクノロジー信仰や狂信的な宗教、果ては陰謀論に探そうとしているように見える。

一元的な科学技術への期待は、このように極めて深刻なアンバランスな世界を生み出したのである。世界という巨大な船は、こうした偏ったイデオロギーの舵取りの下で、行き先の見えない、混乱の中に突き進んでいる。しかも、舵取りをしようとしている人々は、世界を構成するマジョリティを考慮せず、限定的な知識と巨大な資本力に任せ、この巨大船を乗っ取ろうとしているように見える。そこに欠けているのは人類全体を考慮し、他の世界観を許容してゆこうとする倫理観である。舵取りをするのは特定の人間のグループではなくて、倫理そのものでなければならない。いま地球は倫理という船長のいない、漂流する船なのである。問題はどのようにしてこうした一元的な世界観から我々が解放され、多様でバランスのとれた世界を取り戻すかということである。

3. 失われる倫理と欲望の顕現