新型コロナウイルス(Sars-CoV-2)と世界秩序
友人がドイツから間もなく訪れることになっているが、コロナウィルス騒ぎの影響がどうなるか気になる。現在友人は予定を変えずに訪日する予定であり、まもなくドイツを出発する。今のところ日独間で行き来の制限はないが、状況によって方針の急な転換がありうる。ある知り合いは予定している身内の集まりでの感染を心配している。とりわけ一人暮らしの外国人の場合は、不安が大きいだろう。多くの公的、私的な催し物がドミノ倒しのようにあっという間に取りやめとなった。トイレットペーパー騒ぎもまだ続いているが、最近はちらほらスーパーにも戻ってきている。ライブハウスや介護施設、保育園などでも集団感染が発生しているといわれていて、外ではマスクをかけている人も多いが、手に入れられないのかどうか、していない人も少なくはない。多くの人が新聞報道でこの病気の広がりを知り、不安に思っていると同時に、人ごとのようにも感じている人も多いのではないかと思われる。あたかも他人のしているゲームを横から見ているように、本気で不安を感じているようでもないように見える。
現在3月16日の時点では、日本での感染者数はクルーズ船を除けば、800人ほどで北海道と愛知県が100人を超えているが、その他の地域では大阪、東京、兵庫、神奈川など大都市を除くと、10人台、1桁台である。WHOはパンデミックを宣言したが、イタリアなどあっという間に感染者が2万人を超えた地域でならばともかく、日本ではまだそれほど切迫感がないのは理解できる。こうしたときにはよく人間の本心が観察できる。手を洗ったり、うがいをするのはいいとしても、現在の状態で、日本中の人が外出を避け家に閉じ籠ったりする必要はどの程度あるのだろうか。実際、繁華街など歩けば、外国人旅行者は減ったものの、結構若い人を中心に人出は多い。実際世界中がコロナでもちきりの16日現在、日本では、感染者がいないとして、学校を再開させた地域も出てきている。
将来的な感染を防ぐために、今我慢をしなければならないと言う論理は、一見理性的にも聞こえるが、際限なくそうした考えを当てはめていいのかよく考える必要がある。感染は地球上全体に一様に広がっているわけではない。また、危険な伝染病といわれる傾向があるが、ウイルスが未知なために客観的な予測は難しい。イタリア、スペインなどのヨーロッパのいくつかの国やイラン、韓国などの他でも感染が広がっている。しかし広がったとしても、比較的に見れば中世のペストなどのように手の施しようのない危険な病気ではない。それに多くの感染者が結果的に出たとしても、皆が重篤になるわけでもない。
問題はもっと政治的な次元にある。安倍首相が専門家で構成する委員会の意見を無視して、政治的判断だとして、全学の小中高の休校を一律に決めたように、権力は恐怖を理由にして、一足飛びに人々を管理しようとする。そしてそれは一つのステップから次のステップへと、簡単にエスカレートする。一旦そうしたメカニズムが、確立すれば、それ以降は行使が容易になり、人々は次第に感覚を麻痺させていく。とりわけ、独裁的な傾向が強まる今日の政治的な状況においては、最近日本で成立した新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正案の緊急事態措置についていえば、こうした緊急事態法が、全く別の状況に適応される可能性もある。実際、措置が発動されれば、特定の都道府県知事は外出の制限、様々な施設の使用制限、停止を実質的に命ずることができる。また、政府対策本部長は、NHKや放送局、日本銀行、電気ガスの事業者を含む公益的事業法人に必要な指示を出すことができるとされている。施設の利用禁止をすることで、様々な集会を禁止し、公共放送における報道内容の規制まで可能である(日経ビジネス3/13)と危惧されている。
経済的にも、とりわけ中国人などの外国人観光客に依存した旅行関係業界や、中国からの部品調達や製品の輸入を前提にした企業は、業績の縮小や仕事の中断を余儀なくされている。国内でも、様々なイベントの中止や延期で、先細り感が広がっている。病気は回復することが期待できるが、仕事は一度立ち行かなくなると、再建が難しい。厳しい全国一律の感染対策はそれが長引けば見直されるであろう。政治的な判断で、中途半端に国家間、民間の間での関係が損なわれてしまえば、なかなか以前の関係を取り戻すのは難しいかもしれない。
入国禁止や他地域への移動禁止は国によって大きく異なる。中国やイラン、イタリアなど感染規模の大きい所はかなり大規模な場所的な移動規制がされているが、それでも全国的な規模である必要はないであろう。こうした点で、国家の独裁的な体質が明確になる。監視社会では、外出規制などの厳しい規制は容易であろう。しかし、民主的な国家体制であれば、規制があるとしても身体的な拘束はできないはずで、あくまで、その人間の自発的な同意によるべきである。しかし、世界が一律に、いわゆるパンデミックを前提してしまうと、他の国もそうしたのだから、自分たちの国もそうせねばならないという考えを多くの国が受け入れてしまえば、中国で行われているような厳しい規制が、その必要のない日本にも適応されてしまうような土壌が準備されてしまいかねない。実際、新たに、新型インフルエンザ等対策特別措置法が本当に必要なのかは、多くの議論の余地がある。また、アメリカのように突然、正当な理由もなく、特定の国からの入国を禁止してしまうことは、現実に感染とは関係のない人に深刻な環境の変化を齎す。こうした場合に政治家が、国民の生命を守るという口実を使って、別の次元でさらに問題を生み出すということになる。そうした状況の中では、その規制に反対する者は、ともすると、無責任と非難されたり、非国民扱いされることになりかねない。
しかし、ヒステリー的な状態が次第に高まってくる状況の中で、長期的な破綻を最小限にするには、一歩引いて考える必要がある。こういう時こそ、話半分聞くということも、大事になるだろう。それが、冷静さを齎し、短絡的な判断の増幅を抑えることができるならば尚更である。新型コロナウィルスが、不安を起こすのは、まだ適切な治療薬が開発されていないということもある。開発されれば、かなり不安は収まるであろう。この騒ぎで明確になるのは、これまで考えられなかったほどに、一地方の伝染病がグローバル化によって急速に拡大し、それが経済活動を妨げ、人の国家間の行き来を妨げ、人々の当たり前の日常生活を難しくしてしまう、ということである。とりわけ、中国に経済的、人的、資源的に依存したグローバル化を再構成し、多元的な関係を作り上げることが必要になっている。中国はもはや、以前のような先進国のための低賃金の工場ではなく、政治、経済、技術革新を支配する大国である。コロナ騒ぎは他の世界が中国に対するこれまでの見方を改めるいいきっかけである。