定年と社会
退職後それらしく整骨院でマッサージしてもらっていると、定年した人は何してるんでしょうねと、若い先生に聞かれた。いろいろだと思うけど、盆栽をいじって暮らしている人もいれば、そのまま仕事をしている人もいるし、色々ではないですかと答えた。自分の父親は定年後も忙しくしていて、何もしない人間はダメなやつみたいに言っていたので、定年後は色々と次の社会貢献のできるような可能性を探しているが、なかなか思うようにはいかない。
とりわけそれまでそうした社会貢献の経験が無いのでそのままスムーズに次のステップにというのは難しい。大学に勤めていて、大学は世界と繋がっているように言われるけれども、やはりそれは極めて小さな部分であり、大部分の仕事は学内でされていて、上部団体に関わる管理職はやや異なるにしても、学内で完結していることが多い。普通の社会人は遙かに現実に近いし、人との関わりが広く密であり、具体的に資格やら異なる人々とのコネやらが重要になってくる。論文の数といったものではなくて、人格や実行力、また体力勝負のところが多いのではないかと思う。
何かをしようとしても、第一どこにどのような人がいて何をしているのかがよく分からない。一応町内会に属していると地域にも色々な組織があって、役所がしないような現場での仕事を年配の人々が色々としているようである。しかしそうしたところは既に席が埋まっているし、未だそうした名誉職的な仕事をする歳でもないような気がする。なので、もう少し語学や異文化についての知識や経験を生かせるものはないかと考えて、海外への派遣プログラムや地域ガイド等を考えるが、そうしたところにも若くて留学経験のある人がたくさんいるし、関連する資格を持った人がぞろぞろいるようだ。組織としても、経験があっても年配の人間と、これから長く活躍できる可能性を秘めた人間がいる場合には、若手を優先するであろう。実際に若い人がそうした経験が将来的に生かせるかどうかはともかく、それが世の常識というものかも知れない。
つまり退職者がそうした既存の枠の中に入り込むのはなかなか難しそうなのである。と言うことは、やはり自分で新しいことを始めねばならないようである。これは直ぐにできることでもない。やはりそれなりに準備がいるであろう。ニッチに食い込むにしても、新しい事を始めるにしてもアイデアがいる。そのためには先ず現実の社会の流れや全体性を知る必要がある。これは自分の専門だといって狭い分野のみ見ていた自分の視点を大きく変えねばならない。自分は何も知らないということから出発する必要があるし、そうしなければならない。
そう考えると、ますます困ってしまい、本当に何かできるのだろうかと思ってしまう。しかしながら、単に何かを受容するだけ、つまり、本を読んだり、文化を楽しんだりするだけではなく、やはり何かを創造し、発言していかねばならないのではないかという気は強い。これはやはり今まで、色々と社会でお世話になった恩返しというものかも知れない。様々な人のおかげでどうにか生き延びてこられたので、それに対してやはり何か報いる必要があると思う。直接何かを期待するわけではなく、時間をかけて自分を教育してくれたり、重要な場面で重要な配慮をしてくれたり、ごちそうしてくれたり、普段の場においても気を遣ってくれたりと、様々な人の親切があった。そうでない人がいたにしてもそうした事は今になれば、こうした大きな恩恵に比べれば些細なことでしかない。恩恵の重圧ではなく、感謝をどうしても返したいということが頭を常によぎる。
若い人と年配者との断絶は昔からいわれてきたが、やはり年配者が意味のある価値を伝えてゆく必要があると思う。それは意味の無い押しつけなのではなく、一つの選択肢を残すことである。現在は過去の文化的な遺産から学ぶということよりは、テクノロジーの進展に大きな期待の中で、常に未来に目が向きすべてがテクノロジーに基づいてよりよくなるのではないかという風潮の中、我々は過去から切り離されつつある。しかし我々は未来に軸足を置くことはできない。なぜなら未来は存在しないからである。我々は過去にのみ遡り、そこから自らの連続性を形成するしかないのである。未来にのみ目を向けその理想化された想像から自己を形成しようとするのは夢想者である。実際すべての現在と未来は過去の延長線上にあるものである。未来から現在を演繹することはできないのである。
しかし今の若い人でも過去から全く自由なわけではない。天皇の即位に関わる一連の儀式には若い人も集まり、「日本人で良かった」などということを言う。それは必ずしも歴史的な知識に基づいたものではなく、もっと雰囲気的なもののように見える。そうした主観的な、客観的根拠の薄いナショナリズムはポピュリズムと背中合わせでもある。
またテクノロジーは富と結びつき、GAFAのような巨大な企業を生み出し、市場を独占し、貧富の差を拡大している。さらに中国のようにAIを利用して監視社会を更に強固にすることもある。テクノロジーによって利益を生むのは数パーセントの既に裕福な一部の富裕階層である。多くの国は貧困に苦しみ、国が破綻したり、麻薬や汚職に蝕まれている。テクノロジーの明るい将来を大声で説いているのは、それによって恩恵を受けている人たちではなかろうか。一般の我々にとって、キャッシュカードや電子決済によって支払いが便利になったところで、口座にお金がなければ意味がない。総務省統計局によれば日本での非正規労働者は2018年で37.8%で、男女を含めた非正規の労働者2120万人の内7割が年収200万円以下である。こうした中でテクノロジーを喧伝するのは社会の深刻な問題から注意をそらす政治的な手段であるようにも見える。
とはいっても、過去の遺産がそのまま我々を豊かにしてくれるわけではない。我々はそれによって我々の出生と可能で漠然とした将来への選択肢を知りうるだけである。しかしそれは我々の社会的歴史的なアイデンティティをある程度担保してくれることもある。それによって我々は社会との関係性を持ちうる。それはある程度社会の安定化を生み出すかも知れない。最もそれが過激になれば、極端なナショナリズムとして逆に作用しかねない。しかしまた、歴史的な遺産は世代を繫ぎうる共通項となり得る。どんな知識でも様々な解釈が可能であり、その人の立場によって見解は異なる。しかしその事象を基にして対話は可能となることもある。そしてそれが世代を超えて人を結びつける可能性をもたらすかもしれない。しかしテクノロジーはそうではない。一般の人々に多少の恩恵はあるとしても、高度なテクノロジーによって富の大部分を得るのは高度の教育を受けられる裕福な階級である。
我々はそれを否定する必要は全くないが、テクノロジーなどの、まだ海のものとも山のものとも知れないものを神格化するのではなく、もう少し現実的で生活感を豊かにするような新しい価値観をもう少し客観的歴史的な価値に基づいて議論する必要があるだろう。そのために様々な世代の人間が様々な自分の経験に基づき発言することが必須なのではないであろうか。例えば地域やそれを取り巻くより広い世界の歴史の共有に基づいた共同体観の形成であるとか、住みやすい環境であるとか、生活の保障、ほっとできるような人間関係の構築とかである。こうしたことのためにはSNS等のような同じ仲間同士で閉じこもりやすい環境でなく、何らかの全く新しい対話的な環境が必要になるのではないかと思う。その際には無論テクノロジーは有益であるかも知れない。しかしテクノロジーはあくまで人間の理念の実現のための一つの限定的な手段でしかないことを頭に入れておく必要がある。
これまでの仕事を辞めたからと言って口をつぐみ沈黙するのではなくて、積極的に社会と関わり、発言していくことがこれまで以上に重要になるのではないであろうか。何しろ65歳以上の人間は日本の全人口の3割以上いるのであるし、そもそも世代全員が社会を構成しているのである。政治的あるいは経済的に生み出される時代時代の風潮に乗ることがかっこよく、それに乗れないからといって引きこもるのではなくて、それが将来的にどういう方向に向かうのか、よくよく考えることの方が大事なのである。