誰がこれからの社会を哲学するのか
偶然出てきた、昔の大学の先生の書いた本を何気なく手にとって読んだ。それは1970年代から80年代にかけて思想系の雑誌に掲載された記事を纏めて本として出版されたもので、ワイマール期の哲学的思想を論じたものであった。著者は当時名の知れた人で、様々なドイツの哲学者の論文を丹念に読み、その時代の思想の大きな流れを説明している。どんなテーマであれ、複雑でこんがらかったものを簡単なことであるかのように明瞭に説明する文章力は読み手を惹きつける大きな魅力であった。しかしながら読んでいくうちに、なぜ哲学者や文学者が今の時代にほとんど消えてしまったのかに思いが及んできた。
自分は哲学に興味があるし、ドイツのこともある部分知っているので、面白いと思うのかも知れない。しかしながら読んでいてまた疑問も感じた。著者は当然のように20世紀初頭のドイツ思想に興味のある読者を前提して書いているのであるが、現在日本人の何パーセントがこんなことに興味があるのだろうか。70年代は未だ文学や思想系の雑誌は今と比べればそれなりに読まれていたろう。しかし現在においてどうなのだろうか。出版年鑑によれば平成29年の時点で、出版されている雑誌の総点数3480点の内、最多は医学衛生薬学系で412点、工学工業系の370点、読み物の298点が多いが、哲学系の雑誌は23点ある。また新刊書籍の点数では、75,412点の内社会科学系が14,201点で最も多く、文学13179点、芸術12,352点で、哲学系は3919点と健闘している。出版点数と売上数は異なるので点数が多いから読者も多いとは限らないが、少なくとも出版社は哲学系の書物を見限っているのではなく、それなりの需要があると考えていると見ることができる。また哲学書と言っても、哲学史から現代の哲学者の著作のような堅いもの、さらに身近な自己啓発的なものまで様々のようだ。恐らく哲学史などの本来の哲学系の書物は教養層や大学生向け、自己啓発的なものは一般の読者向けのように見える。雑誌に関しては例えば、堅い部類に入る岩波の「思想」は2016年時点で発行部数8000部、読者層は95%が男性で、40代以上の大学、大学院を出た教職員(54%)を中心に、研究者、公務員、大学生が購読しているということである。(https://www.iwanami.co.jp/ad/shisou/)恐らく実際の販売部数は数千冊ということになるので、日本の人口からすれば極めてわずかというしかない。ちなみに総務省の1996年の統計によれば、1980年には100種類の哲学系の雑誌が発刊されていて、1996、97年には最も多く、177冊の哲学系の雑誌が存在した。
最初のドイツ哲学の話題に戻れば、縮小する出版業界の中で哲学系の書籍、雑誌はそれなりに存在感はあるものの、読者層は極めて小さいと考えるべきである。現在において、ドイツ哲学の話自体がそもそも縁遠いが、初めから専門的な知識を読者に前提して議論しても一部の哲学お宅を喜ばせるだけにならざるを得ない。つまりそうした話は現在を生きている多くの人間にとって共感を生み得ないものとなってしまったのであろう。と言うのも20世紀初頭の、初めての凄惨な世界大戦を体験し、破壊の中から新しい文化をかろうじて形成しようとしているドイツの精神的文化は、現在のような、豊かではあるが、グローバル化の中で相互の経済的、政治的、文化的秩序が侵入し合い、価値の相対化、混乱が生じ、国家間の内外を問わず、貧富の差が拡大し、多くの国家によって自由が事実上制限される時代にあって、ギリシャ哲学から連なる哲学の動向を説いたとしても、どれほどの意味があるのかということである。
少し前に知り合いの法律家と何かの折にハイデッガーについて話した時、彼は読んだことがあるけれど、現実には何の役にも立たないと思ったと話した。確かに、ハイデッガーの存在論を読んで社会に応用するということはなかなかできそうもないし、ナチス時代のハイデッガーの振る舞いからして困惑してしまうであろう。神秘主義やロマン主義はもしかすれば内面を見ることで自己啓発に繋がるかも知れないが、時間をかけて大昔の難しい書物を読むよりはもっと手っ取り早く現代に応用できる自己啓発書はたくさんある。無論プラトンやアリストテレスなど更に昔の書物から学ぶことは多いかも知れないが、そんな時間のある人はそういないであろう。専門家がそうした過去と現在における橋渡しをできればよいが、多くの専門家は、古典の翻訳を超えて現代におけるその意義を一般の人に向けて説明することはなかなかできないことが多い。翻訳自体がもはや意味が不明で意味をなさないこともある。
なぜ哲学や思想といった分野は70年代くらいまではまだかろうじて持っていた影響力をこうも失ってしまったのだろうか。既に述べたように、そこには我々を取り巻く世界の構造が大きく変化したことが大きい。とりわけグローバル化の影響が多きいと思われる。科学技術やインターネットの発達による世界のグローバル化は経済や情報通信の分野では大きな変化をもたらしたが、必ずしも人間がグローバル化したわけではない。日本人の多くが英語すらしゃべれないという現状や、政府が難民を初めとする外国人の受け入れに対して極めて閉鎖的であるという事実、あるいは現在の世界を見ても、国際的な協調ではなく、ナショナリズムや人種主義、自国第一主義、経済優先主義が広まっているという事態は社会を住みにくくし、開発や戦争により環境を破壊し続けることに拍車をかけている。これは一つにはグローバル化によって、様々な価値観が相互に侵入し、これまで信じられてきた共同体で広く共有されてきた思想やイデオロギーが信憑性を失ったということでもある。その代替え物を我々は未だ見つけることができないのである。現在強く期待されているのは、科学技術による様々な社会的経済的な問題の解決である。しかしネット社会が当初期待されていたように平等な社会を可能にするわけではない。むしろ逆の方向に向かっているように見える。デジタルデバイドを生み出し、GAFAと呼ばれる巨大な組織が生まれ社会を牛耳るようになった。中国ではITによって監視社会が生まれている。ITを制する国家や企業が経済を牛耳るようになる。そのためには優秀な人材が高報酬で集められ、高い技術力を獲得するには高い教育を受ける必要があり、恵まれた環境に生まれることが人の運命を大きく左右する。つまり科学技術への投資と期待はこれからの社会全体のための将来への希望なのではなく、富の不公平な配分の結果に基づく富裕層のためのより明るい希望に過ぎないのである。
大家族イデオロギーが崩壊し、核家族が生まれ、やがて一人世帯が増え、人々が孤独や疎外感に苦しめられるように、共同体意識を失った社会や国家の中で人々は多くの問題を抱えている。それは過去の呪縛から解放され自由になり、選択肢が増えたことの結果でもある。しかし我々はそれまでは当たり前であった伝統的な基準を失ってしまった。ある人々は宗教の過激な信仰に向かい、ある人々は富を追い求める。少数の人に富を独占された社会では貧困が人々を苦しめる。とりわけこうした人たちは社会のひずみが貧困を再生産していることを知っているために更に苦しむことになる。富の独占のために一般の労働者の賃金は低く抑えられ、連帯もままならなくなっている。富を独占する人々による新しい階級社会が生まれている。ITによる技術革新はそれを補強するものにしか過ぎなくなるだろう。ITは既に国家や富裕層の僕となっている。
そうした中で「哲学者」や「思想家」はよりよい平等で幸福な社会を生み出すのに再び役割を演じることができるようになるのだろうか。そうするためには思想や哲学は、専門家の自慰行為ではなく、現在生きている人が必要としているものを提供するものでなければならない。そして価値の新たな基準を一人一人に与えるきっかけを作り、生きる意味を感じる手段を提供するものでなければならない。しかしながらまたそれは国家単位ではなく、個人レベルのものであり、しかもグローバルな価値を持つものでなければならない。例えば環境問題はそうした様々な現在における問題や危機を考える上で重要な手がかりになるだろう。経済的な利益を得るためだけの巨大企業のグローバルな独占による破壊的な開発や場所やものの独占、一般の人々による過度な資源の利用と廃棄物による環境汚染、富裕国と貧困国の格差の終わることのない再生産と増幅、貧困地域における政治的な対立、その結果としてのテロや血なまぐさい市民と国家権力との闘争。こうしたことはすべて連鎖し合っている。
わずかな富裕層による富への執着ではなく、将来を見据えた正しい富の配分、政府によるコントロールではなくて、政府を監視できるようなような科学技術の利用、独占的な巨大企業ではなく、ローカルに分散された小中規模な企業の保護、地産地消といった日常における一般市民の意識変革等が将来的には社会変革の大きなかぎになるだろう。そのためにはいわゆる特定の分野の知識人だけでなく、様々な分野の人々、とりわけ人文学者や自然科学者たちが自分の専門分野を超えてよりよい将来、よりよい社会を生み出してゆこうという意識を共有してゆく必要がある。IT技術者は大企業の単なる使い手になるのではなく、大企業をよりよい方向へと導く、より大きな社会のメンバーである必要性がこれまでにも増して重要になる。過去の精神やら生などの抽象的な議論ではなくて、人文科学、自然科学の広い分野に基づいた世界観の創出とそれに向けられた共同作業が今後の社会を人間的なものにしてゆく議論のスタイルになるであろう。文学者や哲学者が消えていったのは、存在しなくなったのではなく、社会の要請の中で問題が複雑化し、従来の狭い哲学的な思弁から、より広範囲の経済や自然科学的な領域に関わらざるを得なくなったために、それまでの哲学の枠自体が社会的意味を失ってしまったからであると考えざるを得ない。もはや我々の社会はとうに精神性や精神的な規律のみで管理できないものになっており、世界の原理が変容してしまったのである。しかしながらそうした社会においても尚、我々にとって生の意味を問うことは重要な問題であるし、我々はそれをどんな社会になっても問い続けるであろう。こうした中で、哲学者は単にこれまでの哲学史を辿り文献を読み紹介するのは、あたかも考古学者が古い土器を掘り起こして、何の考証もせずに自分の家の床の間に飾っておくようなものに過ぎない。問題はそこから、現在の我々の生活に連関づけ、我々の生の意味を照射してくれるものでなければならない。歯止めのなくなった資本主義社会における富裕層の金への執着、人間的な理念を失った貧困化する社会の行方、過大評価され、富の生産に従属した科学技術の目指す方向、こうした状況の中でこれから生成する未来社会の姿を考えて行く事は、新しい「哲学者」に課せられた大きな課題である。