パンデミックと不均衡な世界の発展
とりわけイタリア、スペイン、アメリカなどで、家に閉じ込められ外に出られない人々、対処療法を受けながらも次々に亡くなって行く人々、病院や家から運び出され、公共の施設や野外にずらりと並べられている棺桶、集団埋葬などの映像を見たりすると、黒いマントを纏い、大鎌を振りながら街の上に災いを広めている悪魔をイメージさせる中世のペストの蔓延さながらといった感がある。
新しい疫病という見えない敵に対して、マスクをしたり、家に閉じこもるといった手段しかなく、いつの間にか感染し、命を奪われるかもしれないという不安や恐怖。しかもこの時代は、世界中の人が同じ出来事に巻き込まれ、同じような体験を同時的にしている。それぞれ異なっているはずの世界がある恐怖という共通項で括られている。
疫病は考古学的にはすでに何千年も前の人骨から結核の痕跡が確認されるなど、すでに古い時代から出現し、更にギリシャ時代から中世を通して現代に至るまでヨーロッパや日本はもちろん世界中で何度も流行し、そのたびに何十万人、何百万人、何千万人の人々の命が奪われてきた。ヨーロッパでは国が隣接し、疫病も国境を越えて拡がっていたので、メディアが存在したとすれば、人々はやはりある意味で、広い範囲での共通体験をしていたはずである。しかし病気のメカニズムや防疫的な概念が曖昧だったので、恐怖感ははるかに大きかったであろう。また現在は状況は不確かとはいえ、疫病が蔓延している場所、拡大の規模なども情報を得ることができる。それによって人はある病気に対してある程度心の準備や距離感を持つこともできる。
新コロナウイルスはsars用コロナウイルスと似ているため、コウモリのウイルスが人に感染し中国の武漢から拡がったとされている。一地域の風土病のようなものがあっという間に世界中に拡がる。とりわけ飛行機などの交通手段で人は簡単に世界中に行くことができるので、人とともに病気も移動と同じ速度で拡がる。物理的な接触で拡がるので、級数的に拡がってゆく。アジア地域に比べて、ヨーロッパや北アメリカで感染速度が速く、死者数が極めて高い。なぜ欧米で感染者数がこれほどまでに増えたのかは、色々言われているが、体の接触の文化的習慣の違いなどだけではなく、検査数の問題だともいわれている。少なくとも日本において、明らかに厚生省のホームページでも新型コロナウイルスの感染確認のためのPCR検査を受けるようには薦められていない。例えば家族の感染が疑われた場合は、単に部屋を分けて寝る、手を洗う、換気をする、などとまるで深刻さがないような書き方をしている。一方2500万人が回答したLINEの調査では、4日以上発熱している人が、2万7千人いるという。4月14日現在で確認された感染者が8000人ほどとなっているが、PCR検査を受けられない人が多い中、実際の感染者はこの何倍もいるのではないかと疑われても当然であり、中国のデータを当てにならないと非難できない状態である。
また欧米に比べて、外出禁止などの厳しい規則ではなく、あくまで要請であり、企業に対する閉店要請なども、まだそれほど厳格ではない。これは国が休業を要請しても経済的な保証をしないためであろう。世帯への30万円給付や中小企業への給付金にしても、実際には条件が厳しくかなり限定的であると考えられている。また新型コロナに対応する入院の施設も既に病気感染のピークが見えない段階で限界と言われ、これから重傷者だけをより分け、その他の患者はホテルか自宅で療養するという方針である。感染経路の追跡調査をしているとは言っても、韓国や台湾などと比べても対応は明らかに後手に回り、感染者の正確な把握ができているとはとても思えない。ほんの少し前までは成田空港などでのヨーロッパからの入国者の検査は信じられないくらい緩いものであった。
IT の世界では現在5Gテクノロジーについて世界的な議論が起こり、様々な駆け引きが行われている。その最先端を行くといわれる中国で、こうしたコウモリ由来の疫病が発生し、世界が混乱に陥ったことは非常に皮肉なことである。それは例えば、いかに未来を切り開くとされるようなテクノロジーでも、結局、地球的多次元的な視点からみれば問題に一部でしかなく、いわゆる技術革新に基づいた社会の発展がいかに一元的かということの一端が垣間見えたということであろう。確かにこうした技術によって人間やそのシステムが一律に効率的に管理され、AIにより交通事故が減り、人がわざわざ自分で出かけなくても、電気信号のやり取りですべてが済んでしまえば、ある意味で楽であろう。それは効率と生産性を高め、経済的利益をより多く生み出す。しかし、当然のことながら、アナログな事象に当たり前にあった本質的な部分、対面での感覚的な体験とか、空気感、個人の存在が持ちうるユニークな存在感とかいったリアリティが失われていく。
こうした効率性向上を過度に追求してきたための問題は様々に生じている。最も深刻なのは環境問題であろう。農業の合理化集約化によって、多くの国では大企業の独占が進み、農業生産品やその加工品の価格は大企業によって牛耳られている。医薬品にとんでもない値段がつけられる一方で、ハンバーガーなどの安い製品は価格を低く抑えられ、そのために大量生産大量消費が必要となり、それを可能にするためには遺伝子テクノロジーを利用した効率的な農業生産が必要となる。更に人件費は低く抑えられ、組合を結成することもできない。その一方で資本家は場合によっては億単位の報酬を得ている。
こうした過程の中で、これまでの伝統的な食のサイクルは大きく変化し、ジャングルが切り開かれ、巨大なプランテーションが至る所に出現し、動物をその場から追い出し、インドネシアやブラジルのように森が信じられないような速度で消滅している。こうしたことが生態系を大きく変化させ、従来機能してきた森林の役割や質を大きく変え、土砂崩れが起き、森が燃え、海の水質が変化し、温暖化が促進され、悪循環を起こしている。
効率化は人間の勝手に作り出した基準であり、自然は自然の速度を持っている。肉牛や魚の成長を薬で速め、肉の量を増やし、市場により早く供給するという企業の論理が、どのくらいの消費者に理解されるのだろうか。また、世界人口が急激に増え、食料が不足する事態を避けるために、食糧増産の必要があるという議論は、問題の本質から大きくずれたものである。というのも、人口が増えるのは、自然の成り行きでは必ずしもなく、多くの場合、貧困が原因とされているからである。そしてそれは人間や国家によって人為的に生み出されたものである。
いくつかの地域では家父長的な社会のために女性が出産を強いられたりすることがある。また貧困のために栄養が足りなかったり、衛生状態が保たれない状況であったりするために、子供の死亡率が高く、何人もの子供を産もうとする人々も多い。また子供は労働力としても必要とされている。そうした地域では、子供が教育を受ける機会が低く、貧困が再生産されることになる。
貧困は国家内の問題だけではなく、国家間の問題でもある。第二次世界大戦の終了後の、貧しい国もやがては豊かになり、すべての国が欧米並みになるといった夢は、結局ほとんどの国がそれを達成できず、多くの貧しい国はいまだ貧困に苦しんでいる。確かに、多くの国は全体として絶対貧困の状態を脱し、平均的にみれば、ある程度の生活水準を達成しているかもしれない。しかし世界の構造が、帝国主義時代の世界秩序基盤に成り立っていることは間違いない。つまり、金融のグローバル化や技術革新の恩恵を受け、豊かな生活を享受する人々や国と、その恩恵を受けない人々や国が存在し、この関係は、イヴァン・イリイチが言うようにどう見ても、事の始まりではなく、植民地主義を基盤とする経済発展の最終的結果であり、残念ながら固定化してしまった事実のようである。
これは国家間においても、国家の内部においても当てはまる。貧しい国の中で富裕層が生まれたとしてそれは問題の解決にはならない。国家としては搾取されたままであるからだ。中国、ロシア、中東の国々はむしろ経済的、軍事的な意味での帝国主義的な傾向を強めている。また崩壊する国家から多くの難民が「先進国」に流出し、世界秩序が混沌としてきている。
コロナウイルスという疫病の爆発的な拡散は、ある意味で世界の不均衡な発展の象徴であるともいえる。とりわけ技術革新がすべての世界の問題を解決するかのような楽観的なイメージや確信が半世紀以上にわたって我々の社会に浸透してきたが、それは、一部の問題を解決するかもしれないが、多くの深刻な問題はそうした議論によって覆い隠されてしまっている。そして何が問題として取り残されているのか、見えなくなっている問題、忘れられている課題を考える必要がある。
例えばグローバル化は、技術や金融のような領域では当てはまるかもしれないが、文化や習慣、政治的な体制に影響し、必ずしも良い意味で影響するわけではない。実際、世界がより平和に、より民主的に、より協調的になっているだろうか。むしろ一部の地帯での紛争や戦争が起き、それまでは問題を抱えていなかった地域に飛び火し、不安定にさせてきた。シリアやその周辺国の難民流出がEU諸国を防御的にさせ、右傾化させてきた。中国やロシアなどの大国の経済的な発展は、周辺国に脅威を生み出している。また、IT技術の発展は、むしろ国家による国民の統制をより容易にしてきている。
ITは様々な分野で有用であり、必要であるとしても、それが基本的な問題を解決するわけではない。基本的な問題は、「IT革新」という薔薇色の眼鏡によって世界を見ても解決はしない。技術はあくまで手段であって、問題の本質である貧困や環境破壊を寧ろ拡大させてきたことを考える必要がある。また貧困の中で生き、教育の機会を持てない人々は、豊かな国や巨大なサーバーを駆使する巨大企業にとってみればあまり価値のないものでしかないかもしれない。しかしそれは企業の論理でしかない。
なぜ人々がコウモリを食材とするのかはそうした論理からは理解することができないであろう。文化はいまだに(技術的)普遍的なものでは必ずしもなく、とりわけ地域文化の論理は技術の論理とパラレルワールドを形成しているともいえる。ロブ・ダンは1958年に毛沢東がハエ、ネズミ、スズメの駆除を国民全員に命令し、その結果二日間でおよそ5万キロのハエ、93万匹のネズミ、137万羽のスズメが殺され、その結果生態系が破壊され、害虫の大発生が引き起こされて、3000万から5000万の人が餓死したと述べている。不潔な環境が地域文化というわけではないが、それぞれの地域的な環境は、伝統や社会的慣習、経済的な状況、政治体制などが複雑に絡み合っているのであり、単純な技術的論理でいっぺんに解決できるものではないということである。コロナウイルスがもたらした混乱は、単にそれに対するワクチンが開発されれば解決というわけではなく、このように世界の発展の不均衡を示す警告となっているのではないだろうか。