旅と観光
UNWTOの報告によれば、2018年の世界の海外旅行者数は14億人に達した。中でも中東、アフリカ、アジア太平洋、ヨーロッパへの旅行客が増加しているという。現在の世界の人口77億人の内の2割近くが海外に旅行に行っているということになる。オーバートゥーリズムが言われるようになり、多くの国で過剰な観光客対策に悩まされていると報じられている。
なぜ我々は住み慣れた家を出て、知らない場所に行くのか。
普段我々は同じ場所で家族や友人知り合いなど見慣れた人々と暮らしていることもあるし、あるいは長く住んでいても孤立して疎外感を感じていることもある。しかしいずれにしろ同じ場所に住むということはルーティーン化により物理的環境への関心は稀薄化するし、人間関係がある程度において陳腐化する事も否定できない。そうした事は我々がどこに住んでも生じる可能性がある。しかし稀薄化や陳腐化が悪いわけではない。それは緊張を和らげるし、寛ぎをもたらしうる。我々は一日の経過が予測できるし、人々の行動や考えもある程度予想できる。我々は常に緊張をもたらす環境においては大きなストレスや不安を感じる。旅によって我々は陳腐化したり行き詰った環境から一時的に逃れ、違う環境へ身を晒すことになる。
我々の生活や生き方、価値観は極めて大きく環境に影響される。戦争の行われている社会では、人は否応なく生死の問題に直面するし、政治や経済が機能していない国々では、人々はそれから派生する様々な問題に巻き込まれることとなる。職場の人間関係の悪化は我々の命を奪うこともある。現実を変えることは容易ではないが、その現実から逃れることはできる。そうした極端な場合でなくとも、我々は現状況以外の選択肢の存在を確認するために旅に出る。同時に我々は何らかの形で変身願望を持っている。そして密かに、自分が別人であったらどうだったろうかとか、別の国に生まれていたらどうだったのだろうかとか、思いを馳せる。旅はそうした願望実現の一つともいえる。物語を読むことは他者への変身願望であり、他世界へのバーチャルな移行である。旅はそれを実体験するものである。しかし旅の現実はまさに現実なので、我々が旅の世界の現実を完全にコントロールすることはできない。言葉や制度、習慣などの異質性に我々は自らを適応させねばならない。
しかしながら旅行というものは移住と異なり、一定期間異なる場所に留まり、再び元の場所に帰ることが前提となっている。どんなに苦々しい体験であっても、それは一時的なものであり、我々はそこでずっと捕らわれることはない。我々には安全な帰る場所がある。我々の体験の出発点は、これまでの場所における視点である。その根底には比較の思考がある。我々はそれまでの生活の中で体験によって形成された価値観に基づいて、異国の経験を判断する。そのため異国における体験は多くの場合、通常からの逸脱と感じられる。異国での体験は、我々が理解できる範囲ではそれは面白いと感じられるであろうが、理解が困難になり、しかもそれが自分にとって深刻な問題となる場合にはもはや理想的な状況ではなく、苦々しい現実となり、夢は破綻しうる。
しかし旅人は家に帰る。多くの人は家に帰るとほっとする。家ではすべてが管理可能に見えるからである。それまで価値を感じなかったものやそれほど意識していなかった人々に新たな意味を見いだしたり、新たな側面を見いだしたりするかも知れない。しかしそれはまたしばらくすると忘れ去られてしまう。また別の人々は異国における体験の異質性に捕らわれることもある。異質性が何か新たな価値として訴えかけ始める。それはまたこれまでの生活環境や認識を異化させる。人は今まで当たり前だった事に違和感を感じ始める。なぜ自分はいつもこうしていたのか、なぜ自分はいつもこうせねばならないのか、他の方法もあるのではないか。これまでの世界観が揺らぎ出す。
先日、UNWTOとユネスコ主催の観光と文化をテーマとした会議があり、カンボジアの観光担当大臣が旅行することは教育であると言った。どういう意味で言われたのか詳しい説明はなかったが、国家のレベルで考えれば、旅行は確かに他国の文化や発展を見ることで国民に自国の現状の変革を認識させる教育となるであろう。しかしそれは行きすぎれば危険なものともなり得る。他国の豊かさや自由、平等などといったものが社会批判に向けられれば、その国の政治的な不安定化を生み出すかも知れない。あるいはその大臣は、単に地元住民に外国人観光客に寛容であれといったのかも知れない。それは地域にプラスの経済的な効果を生み出す。それは国を発展させるかも知れない。実際アフリカから参加した担当大臣は特に観光資源がないために地元の祭りを観光客のために開催し、地元のコミュニティーが協力しているという。貧しい国の人々は旅行に出かけることは難しい。そのために観光誘致のために、伝統の衣装をまとうユニークなイベントを創造しなくてはならなくなる。そうした祭りはもはやそもそもあった地元のコミュニティーのためではなく、経済効果のためのものとなり、イベントとそのものの意味が変質してしまう。それはある意味でツーリズムというグローバル化による伝統的文化の破壊となる。人々は教育されるどころか本来の価値観を失いかねず、共同体から自らを閉め出してしまうことになる。
日本においても、旅行客の受け入れは、自尊心をくすぐるものであると同時に、異質な他者との軋轢を生み出しているといわれている。新たな宿泊施設が建設され、町の景観は変わり、人々は外国人の嗜好に合わせて食を少しづつ変え、大量の観光客に対応するために大量生産をする事になる。その地方らしさが強調され、それまで存在しなかったものが伝統的な文化とされるようになる。新たな伝統がここでも疎外感を生み出す。それはある意味で豊かな社会にとってはこれまでの価値観や社会から脱皮する教育かも知れない。しかしそこから新しい価値を生み出すのは容易ではない。それまで人々は価値の喪失や社会の変化に不安を感じながら過ごさねばならない。
社会が開かれるためには、観光の促進だけでは不十分である。我々の社会がどうなるべきかというビジョンがなければならない。旅行でどこか別の国に行くのと、外国からの旅行者を受け入れるのとは根本的に違うものである。旅行に出かけて問題になるのは基本的にはその個人であるのに対して、旅行客を受け入れるのは社会全体である。そしてそれは地元の人々の価値観の変化や、異質なものとの衝突を引き起こす。社会全体に新たな変化をする準備とビジョンがあるのかどうか以上に、寛容さや対話力、異文化への知識や経験など様々な人間的な大きさも重要となる。そしてまた社会的なそうした変化をバックアップする行政における大きなサポートや将来を見据えた具体的な政策が必要である。単に旅行客や留学生、外国人労働者を増やすといっただけの無責任なスローガンは却って大きな問題を生み出すであろう。
恐らく旅に出る人間も、旅行者を受け入れる人間の側にも重要なのは、異質な人間や考え方にぶつかって、自分の価値観を崩壊させることかも知れない。と言うのも一般に考えられているような固定した文化的価値や伝統などというものは空想上のものであり、信仰でしかないからだ。同じ祭りでも価値観は時とともに変化する。百年前の地元の人々のための祭りの楽しみと現在における観光経済を前提とした祭りの意味は異なる。日本文化や中国文化といった一般的な文化は存在しないし、存在するにしても人それぞれの常時変化してゆくイメージに過ぎない。もはや戦争時の自国の神格化や経済発展神話などの共同幻想すらも存在しない今の現実を考える必要がある。我々はそれぞれの異なる人々の考え方や知恵を借りて、新たに道を考え出してゆかねばならないのではないであろうか。