国際化やグローバル化が言われて既に何十年も経つが、果たして日本人のメンタリティーは変化したのだろうか。中東や東南アジアなど世界中の多くの国では戦争やそれによる国家の破綻によって自国から大量の人々が難民として欧米などの先進国に逃れ、それによりヨーロッパ諸国では自国内での対立が深刻になり、外国人に対する差別や対立が常態化している。そうした状況と比較すれば、日本はこのような難民に対する深刻な問題とはほとんど無縁であるともいえる。しかしそれがいいことかといえば、事はそう簡単ではない。というのも日本は先進国の中で唯一といっていいほど、国際化が進んでいない国の一つだからである。現在の世界の難民の状況がどれほど深刻であろうとも、日本はそうした深刻な問題に対してほとんど関心を持たず、国を閉ざしてきた。確かに日本における外国人の人口は増えてきたけれども、それはむしろ自国の都合により労働者不足を埋めるためであったり、観光収入を増やすためであったり、中身のない国際化のポーズに過ぎないような政策によるところが多い。日本が国際化するため、すなわち世界共同体の本当の一員として世界の問題に係わり、より良い将来を共に作り出すためには、日常化したナルシスティックな自国中心主義を越えなければならない。とりわけ日本文化や日本語は特殊であり、外国人には理解できないと考えたりする日本特殊主義の考え方は、日本が常に世界の潮流から外れ、国際化を難しくする基本的な原因である。

20206月の政府統計に依れば、2019年度の在留外国人の数は290万人弱で、日本の総人口の2.3%となり、その内84%がアジア系で、中国人、韓国人、ベトナム人が上位を占めている。ヨーロッパが8万人弱、アフリカが2万弱、北米が7万強、南米が30万弱、オセアニアが15万人ほどとなっている。290万人は、広島市や大阪市の人口とほぼ同じであるが、東京に60万人ほど、愛知、大阪、神奈川に25万人前後が住んでいる。アジア系が多いので、見た目にはそれほど外国人が多いといった印象は薄いのかもしれない。アジア系以外の外国人の数は46万人で、割合は0.36%である。一方、EU諸国に居住する人44680万人のうち、EU域外出身の居住者は2090万人で、4.7%、EU域外で生まれた人の割合は3420万人で7.7%であるEuropean Commission HP

厚生省の「外国人雇用状況」によれば、201910月末に日本での外国人労働者数は、165万人ほどであり、290万人の外国人のうちの56%の人が働いており、その内中国、ベトナム人が約40万人ずつで最も多く、フィリピン、ブラジル、ネパール、韓国と続いている。産業別に見ると、製造業が50万人弱で、ほぼ30%を占め、卸、小売りが13%、宿泊、飲食が12.5%、建設業5.6%であわせると60%となる。より高い専門知識を必要とする教育、IT、医療関係で働く人は、15%ほどである。30人未満の小規模事業所で働く人が、60万人弱で、35%となっている。

2019年のOECD対日審査報告では2013年から2017年には外国人材が70万人から130万人へ増加。しかし労働力人口の2%にしかすぎず、OECD諸国の中では最も低い。政策課題分析シリーズ18(全体版) (cao.go.jp)

また若い世代である外国人留学生の方を見ると、20195月の段階で日本語学校に通う学生も含めての留学生数は31万人ほどで、大学院、大学に通う学生は14万人強、日本語学校84000人、専修学校8万人弱となっている。2019(令和元)年度外国人留学生在籍状況調査結果|外国人留学生在籍状況調査|留学生に関する調査|日本留学情報サイト Study in Japan(ちなみに2019年度の日本の大学、大学院で学ぶ学生数は全体で290万人ほど。5%が大学以上で学ぶ留学生という事になる。科学技術指標2020html | 科学技術・学術政策研究所 (NISTEP)その内124千人ほどが中国、73千人ほどがベトナム、それにネパール、韓国が続いている。2012年の16万人から7年でほぼ倍増している。留学等の在留資格を持った学生のうち、2019年に日本企業に就職した学生は約26000人。中国人1万人、ベトナム人5千人、ネパール人3千人、韓国人1千5百人、台湾人1千人ほどとなっていて、アジア系が95%を占め、仕事内容は、「技術、人文知識、国際業務」、具体的には、翻訳通訳、販売営業、海外業務などの仕事をする人が24千人、全体の93%を占めているとされている。そして大学院卒が約6000人、大学卒が約11000人、専修学校卒が約7200人であった。平成30年における留学生の日本企業等への就職状況について | 出入国在留管理庁 (moj.go.jp)中国人留学生の8%、ベトナムの留学生のうち7%しか就職できていないことになる。

2016年,2018年の名古屋大学のアンケートによれば、名古屋大学に関わる900の企業にアンケートを依頼したところ、135社から回答があり、その内90社が外国人留学生または海外留学経験者を採用したというが、ほとんどの企業が、日本人と同じ選考基準での採用を行っていると答えた。外国人留学生に特別の選考枠を実施しない理由として、日本語能力への不安、定着率への不安、これまでの採用実績がなく、社内の受け入れ態勢ができていないなどへの不安が背景にあり、なるべく日本人学生と同じ基準での無難な採用方法がとられているようである。日本企業における外国人留学生の採用活動の現状と課題 (jasso.go.jp)結局のところ、回答率が低いのは、そもそも留学生の採用にあまり関心がないということを暗示しているということともみられるが、関心のある一割程度の企業でも、ほとんどが外国人としての独自性を積極的に意識して採用するというよりは、日本人学生とそれほど違いのない人物を採用する傾向があるということであり、むしろ外国人学生を採用することはリスクであるようなスタンスを取っているように見える。

外国人を受け入れることは、良いように見えるが、実は単なる経済的な公利性を考えただけの施策でしかない場合もある。例えば、技能実習生制度の問題である。2017年に厚労省が労働基準監督署を通じて全国約6000の事業場を対象に行った監督指導では、7割以上の場所で労働基準関係法令違反が認められたと言われている。また、厚生労働省自身も、制度の問題を認識している。(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65550?page=3) 技能実習生制度に関しては、来日のためのブローカーによる高額の仲介料、日本の受け入れ先での低賃金・残業、パスポート取り上げ・監禁・代金未払い・長時間労働・ハラスメント・帰国強要などの問題が指摘されている。対策は後手後手になって、日本への批判や失望が強まっている。

象徴的なのは日本の入管システムである。201719629人いた難民申請者のうち認定は20人、人道的な配慮による在留許可は45人であり、2007年以降全国の入管施設で非人道的な扱いにより13人が死亡しているという。偽装難民の存在を盾にして、難民申請者を犯罪者の様に扱い、入館施設で病気であっても治療をなかなか受けさせないといった時代錯誤の法規の規則遵守は、一般の我々の意識と異なって見えるが、実はその基本において日本人のメンタリティに共通しているものでもあるのだ。日本の入管はなぜ難民・外国人に冷酷なのか? その「歴史的」理由(五野井 郁夫) | 現代ビジネス | 講談社(3/4 (ismedia.jp)

こうした非人道的的行為は極端に見えるが、しかし根底には、外国人との関係を構築できない構造的な日本中華思想がある。とりわけ日本に来た外国人は日本文化や日本の伝統に盲目的、絶対的に従うべきであり、日本人は全員外国人に日本文化を教える教師となるべきであるという日本人の中にある確信を多くの日本人が何気なく共有しているのではあるまいか。しかしながら国際化というのは、一方が他方から一方的に学ぶということではない。それは相互の学びの関係であり、自分のこれまで知らなかった新たな視点や考え方を学ぶ関係の構築である。そうでなければそれは単なる支配被支配、隷属の関係でしかない。技能実習生の問題が生じるのは、完全な経済的な搾取の視点しか前提されておらず、相互関係を構築する前提が存在しないからであろう。それは日本人の何気なく持っている、途上国から来た外国人に日本的なものを「教えてやる」という態度であり、彼らから学ぶことは何もないという前提が存在するからであろう。

留学生に関しても、30万人計画を立てて学生を日本によんでも、その学生たちをどう待遇するのかがほとんど考えられていない。むろん学生は勉強や研究をしに来るに違いないが、学生が人間であり、様々な意図を持っているという前提がない。バブルの時代であれば、日本に来て最新の知識や技術を身につけ、更に日本の信奉者になって貰って、祖国に帰り、その技術や知識と共に日本と協力的な関係を作る人脈を作るという事もあった。しかしながら、現在においてはそうした良かれ悪しかれ包括的な関係は失われているように見える。学生は日本に来たのはいいけれども、日本語研修制度は十分でなく、多くの場合ボランティアに任されている。また、様々な生活に関するアドバイスに十分対応できる語学知識や各国の習慣に詳しいスタッフもいなければ、日常的、経済的あるいは心理的サポートも受けられず、孤立してゆく。そもそも日本人学生が、それほど外国人学生に対して接触しようとしない。接触しようとしても外国語の勉強の道具としか見ないという場合も多い。外国人学生を受け入れるには、受け入れる側にそうした知識や興味が予めなくてはならない。日本における国際化やグローバル化というスローガンは中身のない空疎な叫びにしか過ぎないのだ。そこには、外国の人々を日本社会に生きてゆく同胞市民として受け入れ、将来的にずっと共存してゆくというビジョンが欠落していて、外国人はあくまで一時的に滞在し、日本の素晴らしさを学んでやがて元の国に帰って行くはずだという思い込みがあると同時に、日本は日本人のものであり続けねばならないという「クールジャパン」的なナルシスティックな救いようのない思い込みがある。

また、日本における日本人の外国人に対する人種差別的な意識や行動は、いわゆる発展途上国の人だけに向けられるものではない。専門職を持つ外国人に関しても同様である。大学の外国人教師の多くは、それぞれの分野で専門性を持っているにもかかわらず、当たり前のように外国語を教える義務を負っていることが多い。また外国人を必要とする分野においても基本的に共通語は日本語であり、多くの外国人教員は、会議の内容や毎日送られてくる日本語のメールを理解できずに疎外感を感じることが多い。日本にいるのであるから日本語をしゃべるのが当然だという前提は一見当然のようでもあるが、そもそもこうした外国人教師は、日本文学や日本語教育の専門家は別として、高度な日本語能力を前提として雇われたわけではなく、それぞれの専門分野の教員として雇われているのである。

確かに日本語はとりわけ漢字文化圏以外の人にとっては習得に時間のかかる言語であることは確かである。しかしだからといって、日本語で表現されることが外国人にとって理解できないというわけではない。言わんとすることは日本語ではなくとも内容はかなりの程度まで問題なく理解し得る。逆に英語が巧みな日本人でも、ネィティブの話す英語が完全に理解できるわけではないであろう。外国語による理解というものは、相対的なものである。多くの事例が示しているように我々は、特殊な環境での例外を除いて、第二外国語を完全に理解することなどできない。我々は外国人に完璧な日本語を期待することはできないし、外国人も日本人から完璧な彼らの言葉を期待してはいないだろう。日本語のネィテイブである日本人同士でも相互に理解しあえることは難しいのである。言葉を相互の不理解を主張する根拠にするべきではない。コミュニケーションの難しさは言語だけの問題ではない。それは多くの場合、相手を理解しようとする意志があるかどうかに多く関わっている。外国人だからわかるはずなない、という前提ではどんな言葉を使ったとしてもそもそも相手を理解しえるはずがない。相互理解、とりわけ外国人との関係は、完全な理解というものがあるという誤った前提をしていては成り立たない。むしろ理解しあえるところを積極的に評価すべきである。

日本では日本の価値観が絶対に正しい、外国人から批判されたくないという考え方では、日本人にとっても不都合な様々な問題を反省する機会が失われてしまう。JOCに限らず、日本の政治や会社の百年来変わらないような男性中心の体質は、問題がわかっているにもかかわらず、なかなか変えられないでいる。多様性が存在しにくく、存在しても古い体質に取り込まれてしまう。それは他者との相互的な理解が欠落し、一方的な押し付けが常態化しているからである。多様性に配慮しながら、それぞれの人間の必要性に応じて最善のことを考えることができないのは、一つの原則、例えば、日本に来たら日本人のように振る舞えと言った、日本中心主義に何の疑いもさしはさまないからである。フランス人は外国語を嫌うとか、アメリカの自国中心主義が言われるが、日本の場合、それが意識されていないところがより問題であろう。日本人がいくら英語を学んでも話せないのは、教員養成の構造的な問題だけでなく、そもそも外国語を話す必要性を感じられないでいるからであり、外国や外国人との係わりの必要性が社会に存在しないからである。そうした状況を作り出しているのは、日本という国家の自国完結的、自国中心主義であり、その特徴的な表れが、難民への無関心であり、拒否的な入国管理の仕方であり、留学生や外国人同僚への配慮のなさであり、技能実習生の搾取であるといえる。「我々はすべて外国人」という言葉があるが、生まれつき外国人という人はいない。たまたま国籍を持つ場所以外にいれば、大統領であろうと、ホームレスの人々であろうと、我々は自動的に外国人とよばれるのである。それは国の決めた法的な規定であり、我々の人格や価値とは何のかかわりもない。我々は法によって平等が保証される以前に、人格として平等なのである。