グローバル化の難しさ
IT化が進み、既に長いことグローバル化ということが絶えずいわれるようになっている。インターネットが情報交換の時間を短縮し、我々の心理的な距離を縮めた。海外に生活する日本人も増加している。
外務省領事局政策課の平成30年の海外在留邦人数調査によれば、海外での在留邦人(長期滞在者と永住者)は平成1年の60万人弱から平成29年の約135万人へと2倍以上増加し、地域別で見れば北米が49.6万(37%)、アジアが39,3万(29%)、西欧が21.7万 (16%)である。長期滞在者87万人の内、42%がアジア、北米が30%、西欧が17%である。男性の内、51%が民間企業、留学・研究・教師が13%、女性の内、32%が民間企業同居家族、留学・研究・教師は23%。海外永住者48.4万人の内、男性が18.5万、女性が29.8万である。その内49%が北米に住み、南米15%、大洋州14%、西欧14%である。平成29年の長期滞在者の学齢期にあたる子供8.2万人の内、3.2万人がアジアで、2.6万人が北米で、1.6万人が欧州にいる。いわゆる工業先進国では、留学・研究等のための滞在が多いが、その他の国においては民間のビジネスを目的とした滞在が多い。一方で、在留外国人の数は、平成29年で256万人で、その内特別永住者は33万人、永住者は75万人である。留学は31万人、技能実習は27万である。中国人が73万人で最多であり、韓国人が45万人、以下ベトナム人、フィリピン人が26万人ほどとなっている。欧米ではアメリカ人が最も多く5万5千人となっているが、アジアからの滞在者が8割以上である。 在留外国人は日本の人口の2%ほどということになる。
日本人の外国語習得についていえば、海外永住者48.4万人と、長期在外滞在者の87万人が英語を中心とする西洋語、あるいは中国語をメインとするアジア語を程度の差はあれ話せる可能性があることになる。日本における影響という点で考えれば、海外での永住者は、日本に住む日本人の日常的な言葉への直接の影響はあまり考えられないので、日本人の語学や文化に最も影響を与えうるのは、日本に住む外国人と、長期滞在から帰った日本人ということになるであろう。一方で日本に滞在するアジア人を中心とする外国人は、中国語や、韓国語を除いて、学習の機会も難しく、彼らがむしろ日本語を話そうとするし、中国や朝鮮半島出身の永住者は日本語に不自由しない。従って、日本人の外国語習得に寄与する可能性はそれほど高くはないと思われる。こうしたことを考えれば、最も日本における外国語や外国文化を媒介促進する可能性があるのは、日本語能力の十分でない外国人や英語、中国語など日本で制度化されている言語を話す外国人や外国語能力の高い日本人の海外長期滞在者であろう。外国人の多くは、東京に54万人(21%)が住み、愛知、大阪、神奈川が20万人台、埼玉、千葉等が10万人台である。全体としては関東首都圏が多い。
しかしながらこうした人々が活動できるのは学校や語学学校、一部の企業、サークルや家族などのいくつかのプライベートな集団に限定されがちである。またこの状況に置ける問題としては、日本という状況の中で外国語や外国文化を個々人が自分の限定された知識の中で受け入れざるを得ないということである。その結果学習者は曖昧な文化的な差異の認識の中で、体系的な経験を形成しにくく、外国における異なった習慣や言語の論理を知ることが難しい。例えば日本人が巧みな英語で和食の文化の優越性を語ったとしても、多文化の人間から見れば一方的な主張にしか見えないこともある。逆に外国人の主張をそのまま受け入れてしまえば、日本における状況にうまく対応できないことも生ずる。基本的に主張の論理というものは地球上普遍的なものではなく、その人個人の生活した地域における社会的伝統的な背景やそれに派生した主観的個人的な体験から生み出される。つまり自分のいっていることは、自分の個人的な意見であると同時に、地域的な価値や常識を前提にしている。従って、背景の異なる人間同士がより有意味に、生産的に語り合うには個人的部分はともかく、その文化的価値的な背景の共通点や違いを共有する必要がある。
しかしこうした認識を意識することは容易なことではない。そもそも我々は自分の考えや主張が特殊である事をなかなか認識できない。それどころか我々は誰でも同じように考えていると考えることが多い。しかしこうした考えは、文化が異なれば当然うまくいかないであろう。自分の国の料理が世界一だと思っているイタリア人やフランス人に、日本人が日本食が世界一だと主張すれば納得してもらえないであろう。こうした議論の過程を無視した主張は議論以前の問題として、無知や自己中心主義を前提とした傲慢にしか映らないであろう。こうした場合に必要なのは、基本的な共通の認識を確認することである。例えばそれぞれの文化にとって食べるとは何か、とかそれがどのような意味を持つのかといった認識である。どの料理が一番優れているかといった議論は、味というよりは、イデオロギーやナショナリズムの問題であり、異なった次元の議論である。ミカンの味とリンゴの味を比較してどちらが優れているといったところで意味はないであろう。
こうした文化的、議論の原理的差異への無認識は、学術的な次元でも一般的である。国際的な会議などにおいても珍しくない。数年前日本のある場所で行われた日独の芸術家のシンポジウムでは、現在活躍している日独の芸術家が通訳を通してそれぞれ、現在における各国の現状や自分の活動について意見を述べたが、それぞれの国の芸術のついての概念や社会的な重要性も異なり、国の文化政策も異なる。そうした中で現状の問題を議論することは、表面上の課題や困難は見えるかも知れないが、それがどのように生まれ、それをどのように具体的に解決しうるかという議論が言語上の問題や、文化的社会的な背景についての情報不足があり、ほとんど議論できないままに終わってしまう。こうした会議では海外からほ講演者が多いと、予めの原理的な議論がなされることがないままにその場限りでの議論になり、極めて生産性のないままに終わることが多いのである。
また、別の人文科学の在り方についての国際会議においては、有名な日独の学者が集まって意見を述べた。日本人は日本語、ドイツ人はドイツ語か英語で同時通訳を介して講演し、その後議論になったが、ドイツ人が極めて抽象度の高い議論をしたのに対して、日本人側は具体例を並べた現状の説明が中心で、既に議論の仕方に大きな違いがあった。また相互の学者たちは人文科学という広い共通項で集められ、専門分野はばらばらであった。当然相手の文化や言語に精通しているわけでもなかったので、どの程度お互いが理解できたのか明確でなく、議論もそれぞれが自分の講演をなぞる傾向が強く、無論個々の部分では新しい認識を得られたにしても、最終的にお互いの意見を取り入れながら何か新しい認識に到達すると言う段階には到底至らなかった。これは現在における国際的な会議の実体ではないかと考えられる。
文化を越えて物事を理解するには、言語の理解や、その当該の文化を自ら体験する必要がある。言葉も分からず、数日の滞在で新しい学問的に耐えうる根本的な認識が得られることは不可能である。確かに同じ職業をしているとか、同じ世代であると言った共通項を持ち、それに基づいて他文化を見ることは意味がある。しかしそれには極めて長い時間がかかる。それは自分の文化を相当程度相対化できなければ、他の言語文化に入り込む事は難しいというだけではなく、第二言語を習得すること事態実際上極めて難しいからである。言葉には個々の体験が紐付いている。そうした連関のない、辞書で覚えた言葉を使うことは現実とは関わらない記号を発話するだけのこととなる。日本における英語の極端な崇拝は、正当な他言語学習を抑圧し続けているが、その英語学習にしても、学校の形骸化された語学学習では、理解よりはむしろ誤解を生み、相手の心を打つどころか何も伝えることができないであろう。母語者はそれをすぐさま感じ取ることができる。グローバル化の象徴とされるインターネットやSNSの広まりは皮肉なことに、人種、性差別やヘイトスピーチを拡大させ、同時にテロや戦争が拡大しつつある。こうした世界の状況を見れば、グローバルな理解は後退こそすれ、始まってすらいないのではないかという気がする。