テクノロジーに満たされつつあるように見える現代においても、神話が消えたわけではない。神話は我々の生活の一部として当たり前のように存在している。我々は神話的物語をしょっちゅう口にするし、それの断片を時々話の合間に挟んだり、諺や言い回しとして使ったりすることがある。簡単な古くからの言い回しは、より簡潔により含蓄を込めて言いたいことを表現できる。例えば「猿も木から落ちる」といった表現は失敗が期待されていなかった熟練した人間が思いもかけずに失敗することを言うが、諺には言葉それ自体以上のものがある。諺には我々の知らない謎の歴史が内在しているからだ。現在我々は日常猿を見ることはないし、猿が木登りが上手であると知識では知っていても、それが本当であるかどうか確かめたわけではない。しかしこの諺は猿が木登りが完璧であり、基本的に木から落ちることはないということ前提としている。そうでなければこの諺は成り立たない。そもそもなぜ猿を例えに出すのかということも、現代においては違和感があるが、恐らくこの諺が生まれたのは人々が山の近くに住み、猿との関りが近かったことを連想させる。その起源が曖昧なのも諺のもつ不思議さでもある。
別の例を挙げれば、「鬼に金棒」というものがある、元々力を持つものが、更に強い味方を得て、力を盤石にするということである。これは当然昔話からの発想であろう。鬼などというものはイメージとしても既に我々の日常からは遠い存在になっているし、それについて我々がいちいち深く考えることはない。鬼といった言葉の持つかつての社会的な意味合いはそぎ落とされて、ただの言葉としてしか残されていない。しかしこの諺は、我々に遠い昔の人々が信じていたかもしれない恐ろしくも力の強い鬼という伝説上の存在を漠然と思い起こさせる。恐らく我々は鬼という言葉を子供の頃物語で聞き、それを頼りにイメージしているのだろう。現在の我々の鬼のイメージは漠然としていて、現実感はない。現在一般的になっている桃太郎の鬼退治では、鬼は子供のように見える桃太郎や、猿、犬、雉といったそれほど強そうに見えない集団に突然襲われて降参してしまう、あまり邪悪で恐ろしいという表現が当てはまらない、どちらかというと滑稽でかわいそうな存在に見えてしまう。そこでは恐ろしい生き物である鬼の存在を前提とするというよりは、むしろ鬼という外界にいるかもしれない悪に注意を払い、内界の平和を保ち、人々が仲睦まじく暮らす理想的な社会の維持の仕方を暗示しているようにも見える。他方で同じ鬼の話でも、御伽草子の酒呑童子はもう少し鬼の存在感に現実味があり、鬼は人間界の外にある自分たちの領域に住んでいる。鬼たちは都から若い女性を略奪してきて、奴隷にしたり、鬼らしくそれを食う。結局魔法の酒の力もあり、僧に扮した都の英雄たちに滅ぼされるのであるが、人々にとっての恐怖感や現実味はより大きい。そこには人々の恐怖が感じられる。見知らぬ自分たちの外にあるかもしれない恐ろしい世界とそこに住む恐ろしい生き物たち。そしてその恐ろしい世界と自分たちの世界の境界がどこかで接していて、邪悪な者どもにいつ侵入されるのかわからないいう恐怖がそこでは感じられる。
鬼というものを現在の我々が信じていないとしても、この諺は過去の遺産を共有する者同士として我々と過去の時代を言語的につなぐという役割を持っている。普段は誰も注意を向けず、見過ごしてしまうが、こうした諺は異次元世界へ広がる無数の小さな穴である。鬼は現代の都市生活においては出番はない。しかし映画や物語においては、怪奇的なものは常にあり、ゾンビや人間を襲う宇宙からの侵略者などの話には一定のファンがいる。恐怖は娯楽として消費されるが、基本的には現実味を帯びたものではないであろう。というのも現代は昔の神話的な信仰は、啓蒙的な合理主義によって迷信としてみなされ、ありえないものとして抹消されてしまうからである。
しかし他方では、現実として恐怖は人間にとって常に存在する。しかしそれは現在鬼のように漠然としたものというよりはむしろより目に見えるものになったように見える。病気にしても、生活への不安にしても、極端な場合、戦争に巻き込まれるにしても、そこには原因があるとされている。病気は病原菌によって引き起こされる、何らかの身体メカニズムの異常であり、原因が取り除かれれば一定の治療が可能であると考えられている。職を失い困窮するのは、国内経済政策や市場の何らかの具体的な要因が存在するとされ、政府による何らかの市場介入が有効であるとされる。また戦争が引き起こされるのは、指導者の個人的な名誉欲であったり、歴史的な要因であったり、国民感情だとされる。
しかし無論そうして恐怖心への原因が合理的に説明されたとしても、それで我々の不安が払拭されるわけではない。それは依然としてそこにある。我々の不安は、政治的経済的な原因よりももっと深いところにある。それは存在の不安とも言うべきものかも知れない。というのも我々は普段意識しないにしても、命に対する不安は常に我々の中に埋め込まれているからだ。そして社会が不安定になり、コントロールが失われると、恐怖が表面化し、時には精神的な問題を引き起こすこともあるし、特定のものが外的原因としてやり玉に挙げられる。それは特定のグループや社会であったり、政治であったり、隣国であったり、難民であったりする。それは得体の知れない、自分たちの理解を超えたものであり、我々を脅かすものである。その時我々は自分へのコントロールをも失っているのである。現在の鬼は、そのように一見合理的に説明可能なものであると同時に、実は我々の深い原始的な恐怖心の投影であり、容易な説明を拒むものなのだ。今も鬼は形を変えて存在している。