過去
追われる日常の中では、昔のことを考える暇もない
けれども過去は海のように常に私の頭を満たしている
記憶の海辺には、爽やかな浜風が吹き付け、海が穏やかにさざめいている
私の頭の中にはかつての優しい思い出がひたひたと押し寄せる

幼稚園に行く前に毎日送り出してくれた祖母の口元にほくろのある顔
祖父の自転車の荷台に乗せられていった一面の黄色い菜の花畑の香り
椰子の並木の連なる海岸で一人遥かな海に沈んでゆく橙色の太陽の残光の孤独
何百年も前に破壊された巨大な廃墟となった城壁の高みから見下ろす、黒銀色に歴史を映す輝く川面の苦悩
異国で見た少年のように敏捷で、あどけない目をした美しい少女
優しく話しかけてくる瞳の中の遠くを見るような好奇心
不安に縁取られながらも消えることのない希望に満ちた、自分の人生という遥かなトンネルの先の輝き

しかし記憶の海は時には荒れ狂う
闇が知らぬ間に足元に迫り、咽るような空気に取り囲まれる
そこには何の光も見えなくなり、風が止む
息苦しくなりあたりを見回しても不安が募るばかり

振り向けば闇の中に蠢くものが見える
あたかも恐怖心を打ち消すようにそこには幻のように人影が浮かぶ
それは虹色の華やかな光を発し、懐かしい匂いが流れてくる
子供の頃の友達が路上で楽しそうに何人かではしゃいでいる
時折大きな声をあげながら近所の子供たちとベーゴマで遊んでいる自分の姿も見える
中学校の隣の席の病気がちの色白の少女、冗談ばかり言い合ったいたずら好きの少年たち
闇の隣りの光の中では、小学校時代の自分が同級生と人形劇の練習をしている
下校途中で暫く後をついて行った初恋の少女は小さな路地に消えていった

彼らは夏の陽の朝露のようになんの跡形も残さずに霧散してしまった
彼らは今までどのように人生を過ごしたのだろうか
彼らも時には昔のことを思い出すのだろうか

成人になってからの思い出は遥かに生々しく、
今でも自分につかみかかってきそうなほど近い
それは忘れてしまいたい苦い思い出
自分でも理解しがたい愚かな自分の決断の連鎖が
ウロボロスのように巡りながら自分を苦しめる

未熟だった自分への後悔
限りないほど無駄に失われたように見える時間
高い崖を転がり落ちようとする過去への執着

否定しようとしてもそれは胸の中で燻り続けている
慙愧の念は深い地下にある、決して消えることのない青い炎のように燃えている
叫びながら駆け戻り、すべてをやり直したい気持ちが竜巻のように渦巻く
それは今にも怒り狂った竜のように分厚い黒い雲に覆われた天に向かって駆け上がろうとする
そして巨大な稲妻のように海に轟音と共に突き刺さり、波しぶきと共に海底を揺るがそうとする

私は知っている
それは私を常に誘っていることを
しかし飲み込まれたら帰ることはできない底なし沼だ
その沼はいつも私の足元にぽっかり現れる
それは美しい草花や薫り高い木々で覆われている

多くの者がそこで足を入れ、助けようもなく飲み込まれてゆく
人は知っている、昔に固執することは詮無きことなのだと
それは起こってしまったことなのだ、それを元に戻すことはできないのだと
しかし執着はそうした声を聴こうとしない
それはすべてを飲み込み、焼き尽くす劫火となる
野火のように拡がり、巨大な森林をも飲み込んでしまうほどに

沼に飲み込まれた者たちは破滅の沼の底で後悔しているのだろうか
それとも自分たちの行きついた終点を自業自得と自嘲しているのだろうか
そもそも彼らは振り返る時間すらも持てなかったのかもしれない

しかし彼らは本当に盲目的に破滅したのだろうか
むしろ彼らにとってその過去は一つの出来事ではなく、自身の人格となった
過去はその人間の価値観となり、その人間を支配し、独裁者となった
世間の価値は意味を失い、彼の体験が世界の原理となる

過去という海が堰を切ったように流れ出し、現在と混じり合い、
時間の序列はなくなる
人は一つの巨大な時間に飲み込まれる
世界が一つになる 
自分と他者は一つになり、私が世界と時間を支配するようになる

過去も現在も区別のない世界 それはかれが求めていたことだ
人はその中で安寧を享受する もう戻れない過去を悲しむ必要はない
かれは対立を克服し、世界の支配者となる
例えそれが誰かを追い詰めたり殺めたりしたとしても

しかしどの独裁もいつかは終焉を迎える
それは永遠の世の定め
独裁者も巷の人間のように命には限りがある
しかもより短い命が

では沼をうまく回避できた人間はより幸せだったのだろうか
かれはその日その日を巧みに生きる
過去に距離を取りながら
彼の人生は穏やかだ
しかし過去への遠い憧憬は灰を被っていても、忘れたと思ってもまだ熾火となって燃えている
そして過去はダイヤモンドのように輝きながら遠ざかる
遙か彼方へ
もはや永遠に手の届くことはない彼方へ