理は準なきなり
理は形なし。故に準なし。理学者流、中庸を以て精緻の極となすがごときは、その言は誠に然り。然れどもその人もしまづ先王の道を識りて、しかるのちこれを賛嘆して、これ中庸なりと謂はば、すなはち可なり。もしその人いまだかつて先王の道を識らずして、独り己が意を以て中庸の理を択びて、これ先王の道と殊ならずと謂はば、すなはち不可なり。また、道を訓じて当行の理となすがごときも、また以て先王の道を賛嘆するときは、すなはち可なり。もし独り己が意を以ていはゆる当行の理を事物に求めて、先王の道に合すとならば、すなはち不可なり。これ它(た)なきなり。理は形なし。故に準なし。その以て中庸となし当行の理となす者は、すなはちその人の見る所のみ。見る所は人人殊なり。人人おのおのその心を以て「これ中庸なり」「これ当行なり」と謂ふ、かくのごときのみ。人間、北より看れば南と成る。また何の準とする所そや。また天理・人欲の説のごときは、精微と謂ふべきのみ。然れどもまた準なきなり。辟へば両郷の人の地界を争ふがごとし。いやしくも官の以てこれを聴くことなくんぱ、はた何の準とする所ぞや。故に先王・孔子は、みなこの言なし。宋儒これを造る。無用の弁なり。これを要するにいまだ堅白の婦たるを免れざるのみ。(荻生徂徠、「弁道」、荻生徂徠、校注吉川幸次郎他、日本思想体系36、岩波書店、1973、弁道19)
日本の儒教などの哲学思想は、明治維新以降の西洋化の中では封建主義的なイデオロギーの象徴として、また更に戦後には、戦中の日本主義に対する批判から十把一絡げに闇に葬られた時期が長く続いた。今でも西洋哲学に対して、日本思想という呼び方がされ、本流である西洋哲学に対しては亜流や模倣として見なされる傾向がある。日本の哲学は、アリストテレス、プラトンに始まる西洋哲学の明治以降生じた接ぎ木に過ぎず、その源流である儒教や仏教思想を自らの哲学思想の源流とは捉えてこなかった。しかし実際日本の儒家たちは西洋の思想家と同様に本質的な問題を深く考察してきた、無論彼らのタームで。明治以降の日本の思想家を分析する際には、基本的に西洋的な思想との連関が言及され、明治以前の日本の思想家との思想的連関が論じられることは、いくつかの例外を除いてあまりない。日本の現代の思想家は日本の過去の思想家に連関づけられるよりは、西洋哲学者と連関づけられたがるようである。しかしそれは知への愛と言うよりは、西洋中心主義や文化的な偏見が大きいように見える。普遍的な知としての哲学的な議論は、西洋や日本といった地域で捉えるよりはもっと普遍的なものとして捉える必要がある。
上の荻生徂徠の「理」の相対的価値についての議論は、いまだに説得力のあるものではないであろうか。徂徠は理をその定義からして絶対的なものとして設定するのではなく、そもそも、絶対的な「理」というものが設定可能なのかという、更に一段深い次元にたって問題化している。徂徠は言語概念による真理の定義、この場合は倫理的概念の定義、を不可能とみている。それは人の立場や見方によって理の内容は変わるのであり、その基準も変わるからであると言う相対主義的である。それはある意味でとても日常的現実的な考えである。複数のグループが論争している場合にどちらの言い分も、それぞれのグループにとっては理があるであろう。そうした意味で理は複数であり、絶対的なものは存在しない。しかしそれでは相対的な価値観の対立中で争いは基準のないまま、永遠に続くのであろうか。徂徠によれば基準は存在するが、それは議論によって絶対的な基準を生み出すことはできない。そのためには別のカテゴリーの基準が必要となる。それが「礼」である。
「礼」とは古代から儀式化され繰り返されている伝統的な慣例である。過去の先王たちによって意味を与えられ様式化されたものである。現在の人間にとってその意味が必ずしも明白とは限らないが、後世の人間である我々はそれを繰り返すことによって、その原初的な意味を体得していくと徂徠は考えるのである。
こうした考え方はまた、保守的な形式主義に陥る危険があるという考えは当然の懸念である。しかし徂徠の考えは当時は孔子すら批判的に見たという点では革新的であった、ということを考えねばならない。様々な議論がせめぎあう中で普遍的な原理に到ろうとするのは思想家の当然の思考である。議論の原理を議論のカテゴリーの外にある儀礼に求めるというのは、それも新しい考えであったといえる。それを単に危険だと現在の視点から批判するのは簡単であるが生産性はない。我々が考えるべきは、それでは議論における、より客観的な基準はどこに置くべきかを現在の視点から考えることである。こうした議論はポッパーから、ハーバーマスへ至る対話的合理性の議論とつながっているのである。