いつもの歩きなれた道。
夏の暑い太陽に照りつけられ、商店街を通り抜ける焼けただれたアスファルトに遠くの景色を揺らす陽炎。道路に並ぶ家々は暑さでドアを閉め、カーテンを下ろし、人影はない。信号機は赤黄青と意味もなしに点滅を繰り返し、時折通り過ぎる車も、息を詰まらせるような排気ガスに自身躊躇うかのようにそそくさと消えていく。歩いている自分の脚は、息を切らす上半身をどうにか支えている。いつもは喧しいくらいの蝉でさえ息を潜めている。
小さな路地を曲がって暫く歩くと、町並みはまばらになり、所々に畑が見え始める。草の茂る道が続く。虫たちも木陰に隠れている。遙かに見える山並み。そこまでの道のりは遠い。
それは昔の人の歩いた古い街道。こんな細い道を桜散る春の朧月夜、暑い夏の陽の下、すがすがしい秋の紅葉の落ち葉の上、凍える吹雪の中を何世紀にもわたり、数知れぬ多くの人々が歩いた。いったいこの道はどこまで続くのか。
道は幾つもの分岐がある。その気になれば人はどこにでも行ける。道は歩いても歩いても果てしない。やがて地の果てにたどりつく。その先に見えるのは海。そして海は前に進むことを阻む。
しかし昔の人はそうは考えなかった。人類は途方もなく広い遠い海を渡って世界中に拡がった。小さい丸木船に何人もの人が乗り込み、嵐の中を何ヶ月もかかり偶然に辿り着いた未知の土地。僅かな人々しか生き残れないことは予め知られていたのに人々は出航した。
それほどまで人々を突き動かしたものは何だったのだろう。原始的な生活の中で、彼らは危険を考えられなかったのだろうか。荒々しい人々の社会の中で、彼らは恐怖というものを知らなかったのだろうか。それとも彼らは、恐怖に挑戦することを誇りとしたのだろうか。
彼らは絶望してその地で朽ち果てるより、危険を承知で大海に出かけたのだ、死を覚悟して。我々が世界中で暮らしているのは彼らのおかげだ。行き着いた先に更に過酷な天変地異や飢餓が彼らを待ち構えていた。何十年も続く長い冬が来て、極寒の時代を生き延び、長い長い日照りを耐えた。多くの人が死に、僅かな人が残った。それでも彼らはより良い土地を求めて旅を続けた。
やがて彼らは終に最終的な場所を見つけたと考えた。そして定住した。人々が集い聚落が大きくなった。人々は助け合うようになったが、自然と秩序が生まれた。彼らの求めていた新天地での自由は、安定した食べ物と引き換えに秩序の中の抗争と支配をもたらす。かつて彼らは厳しい環境を逃れるために新天地へ逃れることができた。しかし確立された社会の中で、逃れるすべを次第に失っていった。至る所に支配が存在し、自由であることがただの砂漠での孤独となった。
かつて一つの道はどこまでも続いていた。しかし道は行き止まりとなった。道は自由と希望に向かうものではなく、災いが待ち構えるものとなった。人は道を歩くことを諦め、家に閉じこもるようになった。耳を塞いで、目を覆い、何も喋らない。そこには少なくとも静寂がある。そこでの孤独は、牢獄であるが、護られた社会の中にある。野獣の彷徨く荒野ではなく、心地いい閨がある。凍え死にする吹雪の中ではなく、暖かい暖炉がある。
もはや断崖絶壁に打ちつける荒れ狂う波の咆哮や、森ほどもある大波に砕け散る浜辺の木々の夢を見ることもない。灼熱の海の上で雨水も食べ物もなくやせ細り瀕死で雨を待った長い漂流の日々。気を緩めれば襲ってくる野獣の徘徊するジャングルでの恐怖。
見知らぬ部族との命をかけた息の詰まる駆け引き。いつの間にか始まる部族間での若い恋人たちの密会。血のにじむ苦労をして収穫するはずの作物への喜びも束の間、旱魃や疫病で滅んでいった村々。突然現れ町を略奪する得体の知れない兵隊達。虐殺され、陵辱される人々。生まれてから死ぬまでどんなに努力しようが決して変わる事のない単調で過酷な生活。日常の中でのまれにしか起こらない頼りない小さな幸せと突然襲う死。
もはや人はそうした夢を見ることさえない。我々はついに長い長い道を踏破した。我々はついに幸福を見つけた。そして行き場を失い、歩くことをやめた。そしてその道はどこかに向かう出発点ではなく、終点となった。
どこにも続かない道。誰も歩かない道。枯れた草木が砂埃の中に吹き曝されている。人を拒否する厚い氷に覆われ聳え立つ山々。
真っ赤な溶岩に覆われた山肌。死に絶えた植物と獣たち。もはや誰もそれを気にかけない。
しかし道は今もそこにある。