我々はなぜ話すのか

我々が目を外に転じれば、そこには世界が広がっている。その時われわれが何も考えずに世界を見ているなら、世界も沈黙を守り、何も語り掛けてこない。しかし我々が世界を見て、それを言葉に置き換えれば、世界は我々に応答してくる。我々が目の前にある木を木と呼べば、木は木としてカテゴリー化され、その佇まいを纏う。我々はそこに安定感を感じる。しかしその木が木のようでありながら、木とは明確に判断できない場合、それは我々を動揺させたり、不安を感じさせたりする。

言葉で包み込めないものに我々は不安を感じる。なぜならそれは我々の当然に前提している「秩序」を乱すからである。我々の現在の世界においては全てが合理的で秩序づけられていると考えられている。合理的に判断できないもの、明確に言語化されないものは世界の事象を逸脱していると見なされる、あるいはまだ十分に合理化されていないと考えられる。

ある言葉を発し、命名するということは類似して見えるいくつかの現象を一括してグループ化し、個々の微細な差異を不問に付すことである。それによって我々は対峙する問題に決着を付け、それ以上の思考を止めるのである。そのようにして無限に多様な目の前の現象が区分され、秩序づけられてゆく。世界が言語によって大方言語によって分節化されてしまえば、命名されていないものは注意を払われることはなくなってしまう。

また、非合理な言葉と言うものは存在し得ない。合理的な意味のない言葉は存在する必要がない。一見意味のない言葉も、何らかの意味を持たせられて生み出されたからである。簡単な「あ」とか「お」とかいう言葉でさえも驚きや苦しみを伝えうる。

我々が話すと言う事は、ある意味で神による言葉による世界の創造という奇跡の繰り返しである。言葉はアモルフな混沌とした世界に秩序を生み出す。我々が例えば、「あれは太陽だ」といえば、太陽という恒星のみならず、太陽系が前提され、更には宇宙全体が前提されている。「おはよう」という朝の挨拶には、午後に対する、午前中という時間観念のすべての秩序が前提されているだけではなく、対話者同士の存在する関係があり、その関係の継続性への確認が内包されている。

言葉は世界を構造化する体系として存在し、一つの単純な言葉が、ドミノ倒しの様に他の言葉と連鎖しながら共鳴し合う。そのそれぞれの言葉は連続性と差異によって世界を構成している。ひとつの言葉を発することによって、発せられなかった言葉が暗に反響し合う。発せられた言葉が意味を持つのは、その言葉によってだけではなく、何百万もの発せられなかった言葉が存在するからである。多くの言葉を使い、委曲を尽くして説明しても必ずしも真意が伝わるとは限らない。一方で曖昧なわずかな一言が様々な含みを残しながら感銘を与えることもある。それは話されなかった言葉が響きあうからである。

しかし沈黙は死である。そこには闇の様な無秩序があるだけである。そこには何の閃きも洞察も存在しない。たった一つの言葉が、光となり、世界を映し出すものとなる。