SNSとコミュニケーション

ネット上でのコミュニケーションは、SNSの普及で一般の人々のネット上でのメッセージのやりとりが頻繁になるにつれ、より多く人の意識に上り、議論されるようになった。SNS上でのネットのやりとりは一見会話のやりとりにいているが、大きく異なるものである。普通の対面での対話のやりとりが、同じ空間、同じ時間で行われるのに対して、SNS上でのメッセージの交換は、時間も空間も同時である事はないし、相手の表情を見ながら、即座に反応するということもない。SNS上でのやりとりは、相手のいない場所で機械に向かってメッセージを書き込み、相手の反応を待つという、原理的に文章によるモノローグ的行為である。ただ手紙などと異なって相手の反応が比較的に早く、画面上のインターフェイスによってあたかも対話であるかのように見えるだけである。このこと自体はそれほど重要なことには見えない。新しいコミュニケーションの手段によって、電話やラジオ、テレビが登場したように、新しいコミュニケーションの仕方が可能になったということであると考えるならばである。しかしながら、事態はそう単純ではないように見える。というのも、メールやSNS上のメッセージのやりとりがコミュニケーションの在り方自体を大きく変えているからである。

かつて手紙など文章を書くと言うことは、頭語、時候の挨拶、結びの挨拶等のそれなりのルールがあり、ある程度の知識が必要とされた。しかし今そうした事をメールやSNSに書いたら、却って反時代的として常識を疑われるであろう。現在では、書きたいことのみを書いても誰も不思議に思わない。無論ビジネスメールならばそれなりのルールはある。それは利害と効率性が問題とされるからである。しかしその場合でも時候の挨拶などは不必要なものとされる。

時候の挨拶は、手紙で書かれる主題とは直接関係なく、一般的形式的過ぎるというのが恐らくその理由であろう。時間の節約とすぐさま核心へという効率重視の原理がそこにある。しかしかつての手紙のルールである時候の挨拶などのイントロダクションは、本当に意味のないただの形式に過ぎなかったのであろうか。営業上の理由で、ある会社に何かを注文する場合、あるいは知り合いを食事に誘う場合など、注文のデータだけ送ったり、食事に誘う理由など相手がどうせ分かっているのだから、必要ないだろうと考えられ人もいるだろう。確かにそうした場合でも、受け手は色々と事態を察して、こちらの意向道理のことが達成できるかも知れない。

しかし、重複であったとしても、改めてその理由やこちらの事情を含めて、相手に依頼をすることは、以下のような利点がある。一つは最後の相手との連絡と現在の時間的な乖離を埋め、相手にそれまでの経過を理解してもらうということである。それによって相手が現在の状況を理解しやすくなるということがある。また、より広い情報が共有されることによって、誤解が減少する。更に重要なことは、それによって単なるデータ交換を超えた、相手との情感的な関係が生じうるということである。というのも、受け手はそうした一見主題とは関係のない情報を自分に対する個人的な敬意と受け止めるからである。余分な情報のないメッセージは素っ気ないものと受け止められ、個人的な関係は生まれにくい。それは一般的な他者への呼びかけにしか過ぎなくなってしまう。そこに特定の相手は存在しない。

メール、特にSNSのメッセージはこうしたデータそのものの共有ではなく、そのデータがどのような位置づけにあり、全体としてそのような役割を演じているのかという大きな文脈を語らないことによって、皮肉にも受け手に勝手な解釈を許してしまい、情報の断片化とともに、意味の共有を難しくしてしまう。特定のグループに「明日10時に集まってください」というメッセージを送っても、人は集まるかも知れないが、何のために集まるのか、どれほどそれが重要なのかが共有されなければ、せっかくの集合の機会も希薄なものになりかねない。一見、単なる一般的なイントロダクションと見える挨拶も、そうした相手との様々な文化的差異を埋める役割を果たしていると考えられる。

このように、SNSの広まりは、ある意味で手紙とは異なる、新しい基準を生み出したといえるが、そこには、効率性と速度を優先する故に、個々人の情報や感情の差を埋めながら情報を正しい文脈に取り入れて理解してもらうというプロセスの欠如という大きな危険性がある。それは絵文字などでは埋めがたいもっとコミュニケーションの深層にあるものである。その一つの対策としては、短いながらも、単なるソフトウエアが提案するような特定のフレーズではなく、全体的なコンテクストを意味するような的確で創造的な文を書き手がその都度考え出すことであろう。

SNSの広まりの中での起こりうるコミュニケーション全体に関わる問題としては、そうした断片的なメッセージに慣れた人々が大きな文脈を伝えないままに、たぶん分かってくれるであろうと考えながら、断片的な情報のみのやりとりで対面でのコミュニケーションを済ませてしまうことである。こうしたことが一般化すれば、かつて書籍を基にした場合のようなまとまりのある知識が失われ、ネット検索での断片的な知識の一般化とともに、共通の基盤の存在しないコミュニケーションが一般化するかも知れない。その場合、次第に社会の共通基盤、社会の持つ知の共有のようなものが失われ、共通理解が脅かされる事になるであろう。