防御本能と認知

恐らく我々は心の底では、なるべく他者とかかわりたくないと考えているのかもしれない。というのも他者の干渉が嫌だからだ。そもそも人は自己を中心に行動するものであるし、それを前提にして他者に影響を与えようとする。全く同じ価値観を共有するならそれほど違和感はないかもしれないが、我々はしばしば他者の価値観を強要されることもある。

実際多くの場合、我々は他者の意見や価値観を受け入れざるを得ないことが多い。というのも我々には人間関係の破綻は、さらに深く広い次元での不安を、自分の知らぬうちに生み出すかもしれないという恐怖があるからである。それを避けるために我々はとりあえず目の前の小さな他者の提案を受け入れてしまおうとする。

これまで自分のものでなかった意見や価値観を受け入れることは、我々にとっては心理的に大きな負担となる。それは他者の介入により、自分が統一的と考えてきた自分の行動様式の破綻を意味するからである。しかもこうした自己変革への要求は、他者との接触のたびに起こりかねない。そしてそのたびごとに我々は、外部からの自己変革という「敗北」を受け入れざるを得ないことになるからである。

例えば、子供が箸の持ち方を親に注意される、学生が教師に間違いを指摘される、会社員が上司にそれまでのやり方の変更を指示される、などはこれまでの世界観の変更として心理的に大きなストレスとなるであろう。たとえそれが一般的に教育とみなされているとしても。自己変革を自ら積極的に行うことは、大きな価値の転換である。我々がそれを本当に受け入れることができるのは、その後に自分の利益を客観的に認識し得た後のことであり、通常長い時間がかかる。

一方、実際問題として考えれば、自己保存の本能に基づく保守的な自己意識にもかかわらず、我々の自己は日常的な生活の変化、時間の変化とともに、変化するものであるし、またせざるを得ない。実際、我々は毎日様々な変化に必然的に直面している。そしてそれは我々が必ずしも思うままに支配できるものではない。他人との対立や様々な失敗、事故や病気など、これまでの通常の生活の過程を逸脱する出来事は、我々に意識無意識を問わず、これまでの生活のありかたの無効力さを認識させ、自発的な自己変革の必要性を生み出す。しかしこうしたことを、我々は外からの強制とは考えない。それは、問題自体がクローズアップされ、具体的な他者が明確に表れてこないからである。

そもそも我々が自己変革を必要とするのは、他者の強制の結果というよりは、我々がその社会的な必要性を何らかの理由により認知し、正当性を認めるからである。そうでなければ、我々はそうした変化を達成できないであろう。

言葉で他人の行動を変えようとする場合の難しさは、我々は他人に言われてもその正当性がすぐには理解できないことが多いからである。やはり言葉は言葉に過ぎない。それは必要をその場で迫るような体験そのものではなく、抽象化された概念の構成物でしかない。

しかしここに言葉の深遠さがある。言葉は例え無力であるにしても、言葉がなければそもそも我々は問題を認識することはできない。私の放つ言葉のすべてが相手の拒否という要塞によって破壊され、無駄に雲散霧消してしまうわけでもない。届かなかったように見える言葉でも、相手の心のどこかにその断片が残っていることもある。それは体に残された弾丸の破片のように無意識のうちに痛みとなり、我々に忘れ去られた言葉を思い出させるかも知れない。何年も後に、親の言ったことの意味が理解しうることもある。昔読んだ本を別の視点から理解し始めることもある。

我々が相手にものを言うのに、大事なことは抽象的な言葉による強制ではなくて、それを体験として相手に伝えることである。言葉は概念ではなく、体験でなければ相手に理解されることは難しい。そもそも言葉は、我々が直接体験できなかった他者の体験を伝えるために生まれたのではなかったのであろうか。我々はそれによって世界を広げ、自分の行動の方向性を顧慮できるのである。

結局、相手の態度や対応の仕方を変えようとする際に、相手が不快な強要を感じるならば、それはすでに失敗であると言わざるを得ない。相手を強制的に変化させようとする態度が、相手を身構えさせ、あるいは反感を生み出させるならば、それは無意味な行為であると言わざるを得ない。相手は鎧を身にまとってしまい、コミュニケーションは難しくなる。

ここで一つの重要なポイントとなるのが、我々の誰もが持っている、自分の存在を他者に認めてもらいたいという願望である。我々は他者に干渉されたくないと思いながらも、同時に他者からそのままの価値を認めてもらいたいと考えている。これは我々の持つ幼児的で原始的な、自己中心的な本能であるかも知れない。しかし又これは我々の存在の基本的な価値を形成しているものでもある。こうした自己への評価が失われてしまえば、我々は存在する意味を失ってしまいかねない。自分に対する漠然とした潜在的な価値付与は不可欠であろう。しかし、同時に我々は自分の自分に対する評価は主観的であることを知っている。我々は、完全なナルシストでない限り、自分の考えを本当には確信できないものである。だから我々は他人からの肯定が必要なのである。他人に自分の存在を気づいてもらうだけでなく、言葉によって確認してもらい、保証してもらいたい。我々は他人からの認知に飢えている。他人に気づいてもらいたい、他人から自分のありのままの価値を認めてもらいたい。我々は常にそう考えている。

コミュニケーションの一つの重要な鍵はこの点にある。他者を認めるという点に。しかしそれは必ずしもその人の存在に関わる根源的な表現でなくともいい。一つ一つの何気ない評価が、その根源的な評価に最終的に繋がってゆくこともある。例えば、髪型でも、たまたま身につけているアクセサリーであっても、それを評価することは、その人間の全体への評価に連関してゆく。逆にその人への大々的な公の社会的な評価が、その人間の本当の価値評価になるかどうかは必ずしも明確ではない。むしろ個人的で特殊な個人的評価がその人間の価値評価を増大させることもあり得る。

女性にしばしば見られるように、このような相手の警戒感を解き、相手の心を開くやり方は、とても意味のあるものであると考えられる。小さな褒め言葉でも、それは私はあなたに好意を持っていますよ、あるいは少なくとも私はあなたに何の敵意も持っていませんよ、さあ、話しましょうと言うメッセージを送ることができるからである。微笑んだり、握手をするのも、そうした肯定的なメッセージを相手に伝えうる。これは逆にむっとした顔をされたり、握手を何気なく拒まれたりすることが対話の気を失わせることからもわかる。他人から認知されることへの飢えが、コミュニケーションの重要な鍵であるのではないであろうか。