なぜ他者が必要なのか
我々はどのくらい長く話さずにいられるのであろうか。何らかの事情や事故で孤立状態に置かれ、話す相手がいない場合、人はどうするであろうか。普段から人と関わっている人であれば、恐らくそれほど時間がかからずに、我々は自分の存在に疑問を持ち始め、苦悩し始めるかもしれない。逆に他者との関わりの中で人間関係を負担に感じている人はほっとするかも知れない。いずれにしても我々は他者から孤立し、他者の身近な存在から生ずるプレッシャーを受ける必要がなくなることで、他者との対照化をする必要がなくなり、外からの自己への規制力が弱まり、自己イメージが希薄になるであろう。それは己の解放でもあり、しかしそれも行きすぎれば自己が無制限に拡散し自己の崩壊に繋がるかも知れない。
普段我々は一日の多くの時間、他者の中にいてそのプレッシャーに晒されている。場合によっては現実に他者がそこに存在しなくても他者の存在を常に感じることもある。とりわけ目の前にいる他者の存在を無視することはなかなか難しい。それは他者は単なる物理的な存在物ではなく、我々と同じ意味を共有する存在者であるからである。人間は常に意味を模索している精神的な存在者である。同時に我々は単に肉体として同時に存在しているという偶然によって、つまり同時性や空間の共感、偶然的な状況の共有などによって人間の共同体を否応なしに形成する。こうした共有によって我々は否応なしにお互いを知覚し、認知し合うことになる。それはある意味で偶然を通しての関係が生ずるのであるということである。無論それは意識的に無視しうるし、我々が特に意識を払わないということもままありうる。しかし何らかの言語的な関係を通して両者間に直接的な関係が生まれたとすれば、こうした瞬間は、出会いが奇跡のように稀であるという意味で特殊な出来事とも考えられる。例えば何十億の人間の中で我々が何人の人間に親しく知り合えるであろうか。その前提には無数の物理的な意味でのすれ違いがある。袖振り合うも多少の縁とも言われるが、そうした間接直接の縁がなければ、我々は永遠に知り合うことはないであろう。
他者は、我々に知られていなければ、単なる空想的、論理的な存在でしかなく、我々の人生に関わる存在として実在しているとは言えない。それは考慮の外側にいて、無視されうるものである。しかしいったん視界に入るや、あるいはその人物の実在が何らかの形で我々に影響を及ぼすや否や、その人物は我々と共に存在し始める。たとえ目の前にいなくとも、共感を感じ始める。
往々にしてこうした偶然の関係は、簡単に無視できると考えられてもいる。しかしそれは正しくない。我々が何らかの形で言葉を交わしたり、間接的な人間関係が生じた時、我々は既にその人間と既に関わりの中にいるのである。我々の意識とは関係なく、その人間と関連づけられ、関係の円環の中に位置付けられる。一度だけ会い、言葉を交わしたり、不愉快な思いをしたりした場合も、ずっと記憶に残ることもある。一方で何度あっても、あまり記憶に残らない人もいるであろう。しかし係わった事実は、他者の方に、より記憶されていることもある。自分の記憶にないからといって存在しなかったということではない。友人や家族と話し合うとき、自分の全く忘れてしまったことを一方の相手が覚えていることもある。逆もまたしかりである。あるいは同じ体験でも全く記憶の内容が異なることもある。これは体験というものが全体として個人的なものであり、客観的なものはそのほんの一部にしか過ぎないということなのである。また、そうした記憶も時とともにその意味を変えてゆく事もある。破局した恋愛のような苦々しいつらい体験が、甘いほのかな記憶になり、喜ばしかった体験が逆に失望を生み出すようなこともありうる。
個の存在の証である記憶すらもが多く他者の記憶に依存している。他者との関係の中で我々は他人の目に晒され、評価され、あるいは傷つき、脅威を感じ、あるいは肯定感を感じ、勇気づけられ、自分の輪郭を形づくっていくのである。我々は一方的に自分の側から他者を見がちであるが、他者も我々を脅威や威嚇とみたり、あるいは安心を与えてくれるきっかけとみていることを忘れるべきではないであろう。他者は我々の自己を確認するためのレフェレンスであり、その差異によって意味を与えてくれる「神」なのである。