日本人は話し下手なのか
日本の大学では授業中に学生が自発的に質問することは滅多にないし、通常、教師の方もそれを期待しないことが多い。学生に聞いてみると、相手に無視されたり、馬鹿にされたりするのが怖いという答えが多い。しかしながら日常の友人や家族同士のつきあいでは普通に話している。つまり話すこと自体が問題なのではなくて、その状況が問題なのである。知らない人間の多くいる場で話したりすることは誰にとっても勇気のいることである。自分のあまり知らない場で発言をするには、その場での議論の流れを把握し、全体の議論にうまく関連していなければならないだろう。そしてこのような思いがプレッシャーとなり、我々が口を開くのを思いとどまらせてしまう。
しかしながら、現実には、そうした理想的な議論はなかなか生まれないことが多い。発言者の言うことに聞き手の方から意見が出ても、全くポイントが外れているということは珍しいことではない。つまり公の場で発言をする人がすべて議論の流れを正確に把握して、それに対して正確な議論ができているわけではないと言うことである。そうした場で発言できる人は、場慣れしていて、人前で話すことは恥をかくので怖いことだとは考えていないということになろう。つまりこれは人それぞれが育んでいる発話に対する文化の違いと言うことなのだろう。ある人々は、発言をすることは災いを招くかも知れないと思い、別の人々は、たとえ恥をかく危険はあるとしても発言することはとりあえずいいことなのだと考えるのである。
相手を罵ったり、議論を中断してしまうような発言は論外としても、発話者としては、自分の言い分が相手にどのように伝わり、どのように理解されているのかを知りたいのは自然なことである。聞き手が的外れなことを言っても、それはそれで意味がある。つまりそれは自分の言いたいことが正確に伝わらなかったと言うことかも知れないし、自分の発言が相手を説得できるほどうまく組み立てられていなかったと言うことかも知れない。いずれにしろ、質問者の発言のおかげで、双方向の連絡が生まれると言うことになる。恥をかくのを恐れて言葉を一方通行的に消滅させてしまう対話と、双方向性を先ず考え、相手との関係性を生み出すことを優先する考え方のどちらが意味があるかを考える必要があるのではないだろうか。
我々は往々にして、日本人は昔から話し下手なのだから話さなくてもしょうがないのだと勝手に思い込んでいることが多いように見える。しかし、これによって生じるべき会話の機会をなくし、煮えきれない思いで話が一方的に終わってしまうこともある。あるいはひたすら誰かの話を聞きながら、早く終わってほしいと時計ばかり見ることもある。しかし何も生じなければ話し手は自分の問題を認識できないし、改善もしない。対話の風土の質が高まらない事になってしまう。相手の発言に対して自分の意見を考える習慣は、自分の考えを形成する上でも、他人の思考を広げるという意味でも意味のあることなのではないであろうか。誰かの考えに対して答えることは、一方的に意見を述べるよりも難しいのである。話し下手を文化の問題にしてしまうのは、単なる言い逃れに過ぎないのではないであろうか。
我々は、話す勇気のなさを、「日本人の寡黙さは美徳」であると言ういいわけを隠れ蓑に偽ることが多いのではないであろうか。必要なときに必要なことをいえることは大切なことである。寡黙はいつも美徳というわけではなく、悪徳でもある。