他者へのためらい

多くの人がとりわけ複数の人の前で話すにあたって、自分の意見を言うことを控えてしまうことがある。その理由はいくつかある。

まず、話が複雑で理解できないという場合。これには自分の知識が非常に欠けている、あるいは自分にあまり関係のあるとは思えない話を聞くような場合である。興味があるからといって、相手が自分に興味のない科学技術や経済のことを話されても、聞き手をしてはどう答えていいのか困ってしまう。あるいは外国語で話されて自分が理解できない場合なども、理解できないという意味ではこれに当てはまる。

二番目には、相手の話をある程度理解できて、何を言っているのかわかっても、相手が何を自分に期待しているのかよくわからないとき。単なる同意を求めているだけなのか、それとも別の意図があるのか、理解できないときなど。例えば相手が自分の全く知らない友達や家族が金に困っているという話をしたとすると、我々はそれを一般的な話として、「その人も大変だね」と言って済ませてしまうべきなのか、あるいはその話し手はこちらからのもっと具体的な援助、金銭的な援助や何らかの手助けを必要としているのか判断がつきかねる場合である。

三番目には、相手の言うことがわかるし、自分の意見もあるが、自分の意見が相手の期待していることに合致しているかどうか確信が持てない場合である。とりわけ多くの人がいる場合には、頓珍漢な話をしてしまい笑われるのではないかという不安を持つことは普通である。誰か別の人が話せばそれで話は終わってしまうかもしれない。

あるいは、相手の話を聞いて自分の意見もある、しかしながら、そんなことはだれでも知っているし、わざわざ自分が言わなくともいいだろうと考えてしまい、言うのをやめてしまうこともある。他にも様々な理由があるが、こうしたいろいろな理由で我々は話をする機会を逸してしまうことが多いのではないであろうか。

我々が自分の意見を述べるためには、もう少し深く対話の意味を考える必要がある。結論を言えば、我々にはどんなとるに足りないと思われる意見でもいう権利があるし、言われるべきなのである。そして話し相手はそれを聞くある意味で道徳的な役目がある。

最初の例の問題は、単に話し手の問題として片づけられそうであるが、必ずしもそれだけではない。最初に、なぜ相手がいきなりそうした自分に関心のないことを言い出すのか考えてみたい。相手がたとえ自分にとって理解の難しい話を切り出したとしても、少なくとも相手は私に何か伝えたいものを持っているということである。それは単に自分の知識の大きさを誇示したいだけに見えたとしても、実は新しい知識やその驚きを私と共有したいという意図があるかもしれない。あるいは、その人物は自分の知識をひけらかすように見えて、実は私により良い印象を持ってもらおうと必死に努力しているのかもしれない。そしてその人物は何らかの理由で劣等感に苛まれているのかもしれない。こうしたことは、表面上の言葉の意味だけを考えているだけではなかなか理解しがたいことである。特別親しい人間でもなければ、普段我々はいちいちその人物の背景をあまり深く考えたりしない。

しかし我々は時々対話の基本を考える必要がある。対話の「言葉」に捕らわれるだけではなく、なぜその言われた言葉が、その人物にとって、今話されることの価値があるのかを考える必要がある。我々には多くの関心があり、本来はたくさんの話題があるはずである。しかしなぜ今その話題が取り上げられているのだろうか。それはそこに話手に取って何らかの重要性があるからだと考えられる。全く意味のないことを言う必要はない。しかし重要なことは必ずしも、言葉のみで表現されるわけではない。言葉は表現の中の一つの要素にしかすぎない。対話というものはトータルで考える必要がある。実際我々は、言葉だけではなく、相手の発するあらゆるサインを手掛かりにして相手の言うことを理解しようしているのである。言葉は一つのサインでしかない。

例えば相手が突然、普通の会話の途中で唐突に「今日は空が青いね」といったとすれば我々はどのように理解すればいいのであろうか。相手は話題を変えることによって、これ以上話しても意味がないと考え、話を中断したいのか、あるいは何かを思い出し突然の感慨に浸っているのだろうか。ここで空の色自体が問題ではないことは明確である。しかしなぜ話し相手は空の色のことを言い出すのであろうか。それは辞書をいくら引いても分からない。我々はその相手の表情や現在置かれている状況の中にその意味を見出さねばならない。

対話は人間との間に関係を作り出し、二人の間に意味を作り出す、最も容易で、同時に最も困難な唯一の手段である。言葉はその中でも最も自分の言いたいことを表現できる手段と考えられているが、言葉はなかなか我々の思いどおりにならず、その意味も状況によって異なる。対話と言葉は異なるもので、言葉は対話というコミュニケーションの方法の一つの要素にしか過ぎないことをよく考える必要がある。しかしそうはいっても言葉は我々により明確なイメージを相手に与えることができ、最もエキサイティングなものであり、多くの想像を呼び起こすものである。

目の前にいる相手に言葉が発せられなければ、個々人間の関係は生まれない。もし現在対話が難しくなっているとすれば、それは我々が言葉、文字やが書かれたテクストにばかり関心を寄せ、文字をコミュニケーションの最も重要な手段と考えてしまっているかもしれない。文字は、発せられた言葉以外の様々なその人間の状況や背景に基づいてしか意味を与えたり、解釈したりするしかない。対話はそうした意味では、常に不完全ではあるにしても、相手のことを直接より良く知りうる無二のプロセスなのである。そして発話することがそうした相手を理解するにあたっての第一歩となるのです。それがたとえどんな些細な言葉であろうとも。

ためらいは、いかに対話が我々にとっていかに真剣なものであり、いかに重要なものであるかを教えてくれるものである。何のためらいもなく話される会話は、相手との関係がシンメトリカルで良好であることを示すものかもしれないが、そうした関係は常に継続するわけではなく、我々はそうした状況の中でも、常に会話が破綻しないように配慮していることを念頭に置く必要がある。ためらいの後、その沈黙を破り、相手との関係を創造することは、「はじめに言葉があった」という神の世界創造を我々が発話のたびに繰り返す実践なのである。