デジタル社会とコミュニケーション

社会のデジタル化は我々のコミュニケーションの在り方に大きく影響を及ぼしている。メールは遠隔地の人間同士の情報の交換を容易にし、時間の隔たりをあまり感じさせなくした。一方で我々が紙の手紙を書くことはもはやほとんどなく、人間同士の意見のやり取りは多くの場合、メールで済まされてしまうことがほとんどである。こうしたメールでの意見の交換は効率的であり、情報の伝達を速めてくれる。一方こうしたメールの意見交換の一般化は、コミュニケーション自体の方法を大きく変化させた。

当然対面の話し合いは、メールやSNSなどでのやり取りに比較して減少している。あるいはメールなどによる意見の交換が従来の情報交換のやり方と比較して圧倒的に増大したしたといったほうが正確かもしれない。そのことで、需要が減少したのだから、対話による意見のやり取りは以前の量的、そして同時に質的重要性を必然的に喪失したといえるであろう。

電子的な情報のやり取りの優位な点は、時間的空間的な制限をなくしてしまうということである。しかしながらそればかりが強調され、これまでの対面的なコミュニケーションの持っていた特質が全く顧慮されなくなる傾向があるように見える。コミュニケーションの手段の変化とコミュニケーションの質の問題は同一に論じることはできない。つまり電子的なコミュニケーションが便利だからと言って、それが対面の意見形成と比べて質的に優れているということにはならないのである。

それを論じるためには対面の対話による意見交換と電子的な手段による情報交換がどのような質的相違があるのかを論じなければならない。この点については他の箇所(サイトの資料参照)で論じたが、およそ以下の論点である。

重要な点は、電子的な意見交換の場合は、対面で行われるように目の前の話し手が存在しないので、聞き手は情報発信者の存在を確認できない。それは次のような問題を生ずる。つまり、関心が情報自体のみに向けられてしまい、人格を持った人間関係という意見交換の基本的な枠組みが消滅してしまうということである。インターネットは情報工学の発想に成立しているので、電子的な情報のやり取りは、そもそも人格を持った人間同士の対面の意見交換の原理とは根本的に異なるものなのである。情報工学にとって、情報さえ伝われば特に人間の人格や多様性は重要ではない。むしろ人間の介入を排除するほうが情報の正確さは確保されるという原理に基づいている。

しかしながら対面における意見のやり取りは、常に相手の表情を見、相手の振る舞いや声のトーン、服装、その発話の物理的状況に至るまで様々で多様な要因の入り混じった環境の中で行われる。対面対話をする当事者にとって必要なのは単なる情報の交換ではない。情報自体は人間である対話者の関係を形成する一つの要因でしかないのである。例えば、同じことが言われても、誰が言うのか、どのように言うのかによって意味合いは大きく異なる。親しい人が言うのか、赤の他人が言うのか、信頼できる人が言うのか、それとも信用できない人が言うのかによって、聞き手の受け取り方は全く異なる。芝居のセリフでも、下手な役者が言うのと、優れた役者が言うのは全く異なった影響を生み出すであろう。

情報工学の理念には、誰が言おうと関係なく、普遍的な真理が存在するという確信がある。しかし我々が生活しているのは、客観的な真理の世界ではない。数学的な真理はその分野では正しいかもしれないが、日常世界では多くが役に立たない。ロケットを正確に目標の天体に到達させる宇宙工学の正確さは、人間社会を予測するのに十分ではない。我々は日常的な世界では、誰も客観的な真理を知ることは難しい。つまり我々の日常世界においては、アリストテレスの時代から知られているように、確実性に基づく推論方法ではなく、いまだに蓋然性に基づく推論にしか成り立っていないのである。これはレトリックの世界であり、どれだけ我々が相手を確信させることができるかということが問題となるのである。

つまり、電子的な情報のやり取りにおいて、データは生み出されても、それを結びつけるのは人間の視点である。それは人間の世界観や理念とかかわっている。同じデータでも、人によって全く異なった解釈が可能である。そのために様々な議論が可能となるのである。つまりデータに基づいて議論を生み出すのは人間の思想であり、データそれ自体が思想を生み出すわけではないのである。

そうした人格と結びつくことによってしか生み出すことのできない説得力の中心が不在となり、データは有機的に連関させられずに分散し、議論はその議論の方向性を失い、浮遊してしまうのである。いくらデータを積み重ねたところで、それは浮遊を押しとどめることはできない。人々は氾濫するデータに確信を持てないまま、うのみにするか、全く拒絶するかしかできなくなるのである。フェイクニュースは、誰かの陰謀ではなく、インターネット社会において必然的に生み出されてきたものなのである。

これからのデジタル時代における言葉は、デジタル化され、「客観」を装う情報や議論を、人格を持った人間の対話へと取り戻し、同時にそれを基盤として、デジタルによる情報交換を一つの新たな選択として受け入れるべきであって、デジタル的な情報交換を唯一のものとして一元化し、従来の人格を基礎とする人間的な意見形成を放棄するというのは本末転倒であると言わざるを得ないのではないだろうか。