言葉のもつ想像力と世界
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。 『新約聖書』「ヨハネによる福音書」(冒頭部分)
言葉と「存在」そのものとの直接的で根源的な関係は、様々に語られてきた。この聖書の言う、言葉が神であり、万物が言葉によってなったというのは、言葉の特別な在り方を述べている。物質性を超越した神が存在することによって世界は創造されたのであるから、物質的世界はそれ以前には存在していない。言葉はその特別な特性によって、神の精神性と世界の物質性を創造し、また媒介する重要な要因となったのである。
言葉は我々の耳を物質的に震わせるのであるが、目には見えないものであり、瞬時に消えてしまうものである。物質的な要素を持ちながらも、物質がそうであるように常態的な存在ではなく、誰もそれを客観的に確認することができない。しかしながら、それは確かに存在するものでもある。裁判では第三者の証言が利用されるが、本来それは証拠によって根拠付けられなければ不十分である。証言はまさに神殿で祈祷する神官に対するお告げのようなものである。かつては、神官が神のお告げを聞いたというなら、それを否定することは難しいことであった。しかし同時にそのお告げの客観性や真実性を立証することもできない。しかし神官は証拠を差し出す必要の無い自立したインスティテューションであった。そもそも言葉は、客観的には実証できないのである。というのも言葉は物質性に優越しているのである。そうした意味で言葉は不思議なものであり、神秘的なものとして考えられてきた。
我々は科学技術の支配する現在でも、言葉の真実性をそれほど疑わないように見える。メディアに流れるニュースや様々な情報は多量であると同時に異質であり、それぞれに対して適切な判断基準を探し出し、正しく判断することは難しい。本当に客観的に逐一その情報を正確に判断しようとすれば、膨大な時間がかかるであろうし、その結論もまた結局は一時的なものでしかないであろう。そうした意味では我々の世界は、得体の知れないメディアという神官の書いたお告げをそのまま無邪気に信じているようなものであるかもしれない。
しかしそうした言葉への無邪気な信頼は言葉それ自体の力の故でもある。言葉は、その意味されるところや実際の客観性とは別に、もののイメージを生み出し、人の耳に訴え、信じさせるような力をそれ自体で持つ。誰かが、「私は神である」と突然言い出せば、ほとんどの人はそれはばかばかしいと考えるにしても、その言葉を何人かは真に受けるかもしれない。そしてその人間を特別な目で見たり、あるいはその人間の在り方を別の視点から再考せざるを得ないかもしれない。幽霊やUFOを見たと人が言えば、それを信じる人は必ず存在するであろう。言葉はその発話によって仮の現実を否応なく作り出すことができる。逆に、あるものが存在しても、そのものが言語化されなければ、それは存在していないことにもなりかねない。新たな病気の概念は病人を生み出し、新たな時代のスローガンは、人々に新たな希望を生み出しうる。言葉はそれ自体によって創造しうる。また、あることについて誰も言及しなければ、誰もそれについて知ることはない。忘れられた膨大な人々の歴史、深い森や深海の多くの生き物について誰も語ることはできない。沈黙はあったはずの過去を抹消し、存在そのものをなかったことにしてしまう。
我々は言葉によってある事象を、描き出し、仮の現実を創造するとしても、言葉の描写することと、世界の在り方は無論必ずしも一致しているわけではない。それは言葉が世界とは関係なく、それ自身の創造性を持っているからである。ある人が、世界は平和で素晴らしいといえば、その人にとって世界はそのように見えるのであり、誤謬とは言えない。しかし他の人から見れば、世界は必ずしもそう見えるわけではないであろう。言葉はそれ自体でも存在しうるが、現実的に機能するためには、客観的な他の事象と関連づけられる必要がある。それは第三者の同意であったり、論理的な関連づけであったりする。それによって、その言葉は普遍性を獲得し、他者との共有が可能となる。良い天気ですね、という言葉も、現実に雨が降っていれば、冗談だとか、認識能力の欠如だとか、全く違った風に解釈される。
このように、言葉と現実の齟齬が生じるのは、言葉が現実とは独自に、創造力を持っていると同時に、言葉が現実に深く関わり、またそれに制限されるという、重複的な関係にあるからである。戦争を主張する政治家の理念が、別の世界を生み出し、人々を戦いへ駆り立てても、理念の破綻が現実として人々に見えて来れば、その理念は崩壊し、人々は離反する。また、新しい現実、例えば極端な貧困や暴力は、逆に新しい言葉、理念を生み出すこともある。
しかしながら言葉と現実の絡み合いの関係は、最終的には言葉によって分節化されなければ再び忘却され、存在を抹消される。言葉は世界を配置し、構造化するものである。たとえその分節化が誤っていたとしても、それは一つの世界の一時的な在り方として完全な誤謬とはいえない。かつての歴史描写や物語はその時代やその時々の在りかたを提示するものであり、様々な現実のうちの一つでもある。世界は多様に存在する。それは言葉によってのみ可能となるのである。言葉がなければ、世界は無機質で無秩序の茫漠としたカオスである。言葉が世界に生命を与え、秩序を生み出し、構造を与え、展望を生み出す。