3.理由付け

話が表面的に終わり、虚しさが残るという体験は誰にでもあるでしょう。我々は時として、なぜその話が話題になったのか分からないこともあります。あるいは、ある人が自分の体験を話したとして、なぜその人がその話をしたのか、どうしてそうしたのか、その結果どうなったのかわからないままに話が終わることがあるかもしれません。

我々にとって話が断片でしかなく、自分の経験と何の関りがない話は、全く面白くないか、興味を引くことはないでしょう。逆に言うと、我々は人の話を自分に体験と連関づけようと常に考えているのです。我々は他人の体験を自分の体験と融合させて、自分の世界を広げたいと考えているのではないでしょうか。そして、なぜその人がその話を自分にしたのか、そこから自分は何を教訓にできるのか、考えているのではないでしょうか。我々が人の話を理解できるというのは、その事象の経過を合理的な理由によって跡づけ、理解できるということです。

我々は日常的には、話をあまりくどくしたくないので、常に論理的に話をしようとはしない傾向があります。つまり、理由付けを省略しながら話を進めてしまうことがあります。それでも普段聞き手はその欠けた空間を自分の創造力で埋めながら相手の論を追っていこうとします。例えば、ある友人が、昨日も近くの牛丼店で夕食を食べたよといえば、聞き手はああ、彼は料理を作るのが面倒なんだな、とか、そういえば最近家を買ったので節約しているのかな、とか勝手に理由付けをしたりします。

あるいは、ある人が服を買いに行って、国産で似合う黄色のドレスと、あまりに合わないがブランド物の高価な赤のドレスのどちらを買おうかと迷ったが、結局赤のドレスを買ったといえば、その理由を知りたくなるでしょう。しかし理由を聞くのは憚られるかもしれません。その人は単に見栄を張っているのかも知れないからです。しかし理由がわからないと、何となくわだかまりが残るでしょう。つまりその人の思考回路がわからなくなるからです。それは相手に対する疑惑になり、そうしたことが重なると関係がぎくしゃくするかもしれません。

話し手の立場から言うと、我々は相手に自分がどうしてそう考えるのかを説明したり、少なくとも暗示する義務があるのです。固く言えば我々は常に自分の意見に対して立証責任を課されているのです。自分の意見への理由づけは、議論を深めてくれます。そして相手の心をより開示してくれるのです。理由が不十分ならば、更にその理由を聞き、更なる議論の深まりが可能となるかもしれません。それによって相手がどうしてそう考えるのかをより知れることによって、その人間をより深く知ることができるかもしれません。逆に相手の行動の理由が明確でないと、我々は混乱し、疑惑を持ってしまいかねません。