少年の日々 6
少年の通う高校は隣町にあり、朝はよく近くの同級生と一緒に自転車で通った。少年の住む所々に家が散在するだけの舗装のない田舎道を過ぎ、隣村の直線の道に左右に家が建ち並び、さらに右肩上がりの景気で田圃に突如出現した工業団地建設のために行き交うダンプトラックのひしめく自動車道を半時間ほど走り、市街に入り繁華街を通り過ぎた更にその町外れにあった。高校の校庭の周囲は高い銀杏の木に囲まれていて、質実剛健という目標を掲げる、どこにでもあるような田舎の学校であった。夏は隙間なく立ち並ぶ高い木々の尖った梢の彼方に、暑い夏の青い空が遙かに見えた。冬の日には冷たい北風が脅かすような声を上げながら吹き渡ると、暗い雲に突きさった木々の梢がそれぞれに一定方向に靡き、真っ暗な雲の中おどろおどろしい広い闇に包まれた校庭にわずかな黄色い光を断末魔のように放ち、鮮やかな橙色の敗北しつつある陽が地平線に飲み込まれた。
少年は見知らぬ大勢の生徒の中で時々どことなく気まずい思いをしていた。孤立していたわけではなかったが、懸命に勉強をすると言うよりは、何か別のことをいつも探していた。学校での学習は現実離れしていて意味のあるものとはとうてい思われなかった。それでもどういうわけか天文クラブに入って、毎日黒点観測をする仲間につきあった。一人は小柄で都会っぽいが、おたくな感じの少年で、一人は普通の気の良い少年であった。なぜ太陽の黒点を毎日記録するのか分からないままに、昼休みに食事をしてから必ず天体望遠鏡のある最上階に集まり記録を付けた。夏は担任の教師たちと一緒に山に行き、流星群を観測した。山での観測は普段あまり見ない様々な星座を覚え、学校の建物の屋上でも何日かにわたってやはり流星観測をした。明け方まで屋上に横になり、流星を数えるというものであった。寝込まないように誰かが回ってきて、まぶたの上にメンソレータムを塗っていった。結局涙で星は見えなくなった。屋上に寝ていると真っ暗な空に落ちてしまいそうな気がして、その後しばらく宇宙のことを考える度に無間地獄に落ちるような恐怖を感じた。黒点観測の二人の少年たちがどうなったかは、少年は知らない。
学校には様々な近隣の地域から生徒がいた。中学校の知り合いは数人しかいなかったが、クラスには道化がいたり、女子生徒に取り巻かれた学生や、地元で有名なお店の親を持つ美男美女のカップル、頭の良さそうな一群の少年たちがいたりで、多様であった。卒業後、何人かは良い大学に行き、 当時から成功例と見なされる典型例である大きな商社に入った。小学校からの友人である別の少年は、音楽から運動まで何でもできる人間であり、人望もあった。彼は少年と同じ高校に行きやはり良い大学に行った。少年は彼の成功を疑わなかった。数十年して同窓会で彼と会ったとき、彼は何十年もダンプの運転手をしていると言った。しかも未だ独身であった。就職した会社が不況で倒産し、その後彼は仕事を見つけられなかったらしい。そこには、当時彼と仲の良かった女性がいた。二人がもしかして結婚していたのではと考えていた少年は、彼女が全く関係のない近所の男性と結婚し、あまり幸せでもないような風であったので、からかって、今から結婚でもしたらというと、彼女は、今更結婚しても老後の看病をするだけのことなので今のままで良い、と言った。運転手をしている彼は物腰が柔らかく、誰かを探しているようであった。また、彼の兄も何か問題があったらしく、一人で暮らしていた。少年はどこかで彼の父も早く亡くなったと聞いたことがあった。
一緒に学校に通った別の同級生は、少年が大学に行くと、父親の自宅の印刷所を兄と一緒に継ぎ、働いていたらしい。少年があるとき田舎に帰ると、しばらく前にその印刷所から火が出て、両親が火事で亡くなり、印刷所も焼けたということだった。少年がその家を通りかかると、家にはブルーシートがかけられ、まだ解体もされていない状態だった。少年はなぜその同級生がこんな小さな所で一生を送ろうとしたのか、なぜ外に出て働こうとしなかったのか考えた。何でも可能であった人間なのになぜ父親の仕事に固執したのか、あるいはそれは希望の持てるものだったのであろうか。しかし彼には田舎では選択肢はなかったのだろう。少年の父親は同級生のよしみでそこで年賀状などの印刷を頼んでいたそうだ。彼によれば印刷所は役所の仕事でどうにか食いつないでいたようだ。 経済的に行き詰まって両親が自ら火を付けたのではないかという噂を少年の父は聞いたといった。 その後少年は偶然その同級生に会った。彼はダンスが好きだということだった。昔の同級生ともよく会っていたらしい。普通の身なりをして、若々しく、元気そうに見えた。どうしているのか聞くと、元気だ、とだけいった。それ以上少年は聞けなかった。
ある同級生は、大きな白い高級車に乗って同窓会に来た。彼はかつて学校の人気者で、常に他の仲間を笑わせていて、それが生きがいのような陽気な人間だった。卒業してしばらくして、少年はその同級生が若い頃事故を起こし、そしてその被害者である女性と結婚したと聞いていた。彼は少年が尋ねるとそれを否定したが。彼は少年のことを全く思い出せず、適当に買ったようなジャンパーを着て、口の重い、以前からは想像できないくらい特徴のない人間に見えた。彼は独身で、母親と暮らしているという。そしてやはりトラックの運転手として働いている。彼は結婚して、娘をもうけたが、まもなく離婚し、妻にまとまった金を渡し、それからその妻とは縁を切り、その後何十年もの間一度も娘に会っていないという。親の広い土地があり、それでそれなりに裕福に暮らしていると言った。彼の態度には、人生を思うように支配できなかった抑圧された諦念と怒りがくすぶっているようであった。
少年が小学校から好意を寄せていた女性は、すぐ少年の家の近くの同級生と結婚していた。彼女は一度少年を高校の文化祭に招待してくれたことがあった。少年はドキドキしながらも喜んで出かけていった。しかし突然得体の知れない幻滅に襲われて、彼女を一人置き去りにして消えてしまったのだ。少年にもそれがなぜなのかわからなかった。少年は頭の中の少女に憧れていただけのようだった。夢想された夢の中の彼女と現実の彼女は相容れることはなかった。それが当時の少年の世界だったのだ。彼女の夫の方は、成績も良く、少年は彼や他の何人かの同級生たちと、人形劇の練習をしたり、あちこち歩き回ったりした。小学校の頃、突然クラスにいる彼に家に帰るように電話が掛かってきた。彼の父の働いていた製紙工場で事故が起き、彼の父親がパルプの下敷きになり亡くなったのだ。そのため彼は早くから仕事を始めねばならなかった。彼は都会に出て、組合活動に専念し、活躍したらしい。彼は早々に退職し、自転車で日本中を回ると言った。態度には自己への自信が覗かせたが、一方でどこか少年に距離を置いているように見えた。少年は、彼がその女性を好きだったのを知っていたのだろうかと思った。