青年時代 2

少年は他の同級生たちと同人誌を作り、詩的な作品を投稿した。語学の勉強に一生懸命になり、世界文学の作品を読んだ。その日暮らしの小さな世界に生きていた小さな田舎の少年が、次第に別の世界の歴史を少し知るようになった。しかし世界は未だ遙か遠くにあって、天上遙かな雲間に一瞬漠然と見えるに過ぎなかった。都会という小さな社会での同じ生活の繰り返しだった。それでもやはり世界が拡がったに違いなかった。様々な人という世界が立ち替わり入れ替わり少年の世界に現れた。とりわけ少女たちは由来の知れない不思議な存在として現れた。少年たちとは異なった周波数を持つ正体の不確かな現象として。その背後には果てしない奥行きがあって、見知らぬ世界に引き込まれてしまうような気がした。その点少年たちは多様であっても深みは予見でき、大抵は管理可能であるようにも見えた。

文学は少年を惹きつけた。何百年前も前の話であっても、自分がいつかその物語の主人公になるような気がして胸を躍らせた。少年はそうしたどんな物語にでも同調することができるような気がした。そもそも当時文学は世界で最も強力な権威を持ち、文学者が至るところでものを言い、政治的、文化的な場面で方向性を決定づけていた。文学者は新聞や雑誌、テレビやラジオに登場して予言者のように、政治であれ、経済であれ、何につけ意見を述べ、またそれは尊重されていた。

多くの大学の文学系の教員もまた、評論を書き、マルクス主義者であったりした。彼らもまた戦争体験者であり、多くは戦前の天皇制に対しては反感を持ち、学生とは異なるにしても彼らなりの新しい世界をイメージしていた。彼らは悪しき過去の砦となり、反戦教育を是認し、未来を指し示そうとしていた。しかし同時に彼らは戦争の当事者でもあり、いい意味でも悪い意味でも過去にも強く引きずられていたのである。戦争という事実は彼らの思想から忘却されることはなかった。大学での授業はほとんど関心のあるものはなかったが、授業外での教師たちは未だ使命感に燃えていて、多くの時間を学生に割いてくれた。そうした私的な関係がなければ大学にいる意味はあまりなかったように見えた。彼らは漠然とした子供たちの現実感の薄い淡い世界と現実を結びつける不確かな仲介者であった。

少年の教師は、やはり文学評論家であったが、学生の頃学徒動員を避けるために、文系から理系に移り兵役を免れた。死の恐怖が彼を完全に占領し、死以外は何も考えられなくなり、それ以来戦争が終わってからもなお彼の人生に絶えず付き纏ったという。彼は酒を飲み、楽しんでいる時も、どこか深い淵にいるようだった。少年たちが卒業し、何十年も経って彼を飲みに誘った時、早速やってきた。医者に止められていた酒を飲み、かつての学生と懐かしい時間を過ごした。次の朝、彼はくも膜下で自宅のソファで一人亡くなっていた。彼は葬儀を拒んでいたので知り合いは落ち着かなかった。特に少年たちは誘った翌日に彼が亡くなったことについて罪悪感を感じていた。しかし一方では彼は自分たちの最も近い学生たちに囲まれて良い時間を過ごしたのだという気持ちもあった。少なくとも彼が苦しむことなく亡くなったのではないかという期待だけが少年たちの気休めであった。

合宿などがあると、学生たちはまるで宇宙船に乗り込んで別の世界に行くように喜々として出かけていった。気心の知れた友人たちとの朝から晩までの生活は、必ずしもすべての関係の枠が取り払われるわけでもなく、それまでの気まずい者同士が仲良くなるわけでもなかったが、空間と体験の共有は関係を深めることとなった。年配の教授が何日も眠らずに一晩中議論をしたり、思いがけぬカップルがこっそり二人だけで話し合っていたり、夜には酒を持ってあちこちのグループの部屋に出向き、様々な仲間と話し合った。学生同士の良さは、立場の違いを考えることなくある事に没頭できることである。どんなに些細な、あるいは抽象的な議論でも、それについてのそもそもの意味や存在理由を問う必要がない。それ自体で意味が充足しているからである。都会での大学生活は少年に自分以外の世界を示し、同じ場所に生き、とりあえず同じ方向を向いている者同士に将来のイメージを生み出し、それが実際に存在するかしないに関係なく仲間同士の共通意識と同じ者同士の共同体の存在を意識させた。

少年は大学終了間際になると、教師の勧めもあり大学院に行こうと考えた。毎日出勤して同じ仕事を繰り返すという生活はイメージできなかった。それは自分の後を継いで銀行員になると考えていた父親を驚かせた。少年の住んでいた場所では、そもそも大学進学する人間などほとんどいなかったので、仕事をしないと言うことはプータローになると思ったかもしれない。しかしとりあえず、奨学金とアルバイトで経済的に独立し、東京で生活を継続することとなった。大学院時代は、思った以上に単調で、退屈のものであった。と言うのも、孤立し論文を書くという生活は、先の全く見えないものであったからだ。

ボートで海に漕ぎ出して見たものの、海は暗く果てしなく、どこに向かっているのか、どこを目指せばいいのかわからず、とにかく若者の持つその日暮らしの楽観主義だけが、暗い海に転落しかねない危険を妨げていた。少年は出版社でアルバイトをしながら暮らしていたが、もう二十代の後半になっていた。しかしながら大学を超えての勉強会が少年の人生を変えることとなった。他大学の学生とのかなり大きな学習での差を少しずつ埋めながら、留学という目標が生まれた。ドイツ語の学校に通い、個人レッスンを受けた。他大学の教師の大きな助けによってどうにか2年目にして留学することとなった。少年の人生を大きく変える転換期となった。しかし既に青年となった少年は27歳で結婚し、既に2年が過ぎていた。二人は結婚式をし、見知らぬ郊外のアパートでカップルとしての小さな生活を始めた。しかし少年はそれが長く複雑な人生の始まりだとは全く知らなかった。

青年時代3