少年の日々1

少年は、忘れられたような地方の小さな田舎の次男として生まれた。長男として生まれた男の子は生まれて二ヶ月後に、入浴後突然皮膚に斑点ができ亡くなったという。そのため彼が長男として育てられた。父親は少年が4歳の時に離婚したが、一年ほどたつと再婚し、道路を隔てた隣の棟に住んでいた。

 

眼下に一面に水田の拡がる高台の家は広い敷地の中に立っていた。家の裏にはその地方ではよくあるように何本もの高い杉が立ち、その後ろには薄暗い竹林が近所の家々へと繋がっていた。家の後ろの一角には小さな崩れかけた神社があった。その神社は少し離れた小さな町にある猿田彦を奉る、地方で最も古い神社と関わりがあるということであったが、実際には時代とともに役割を変え、戦時中には天皇の御真影が置かれていたという。少年の家の下水は、やや低まっているこの竹林へと流れていき、猫や犬などの獣以外は誰も竹林には入ることはなかった。雨期には雨が溜まって湿った匂いの空気が低く漂い、空っ風の吹く夜には笹がもの凄い音でざわざわと響めき、音を立てて風が踊り、不気味な暗闇が家の中に入り込もうと窺っていた。夜になると少年は、いつも薄い摺ガラスの後ろで魔物が蠢いているように感じた。家の古い台所部分ではあちこちで雨漏りがし、畳は足をのせると沈み込んだ。台所は未だ土間で、土と藁でできた竈が二つ並んでいた。雨が降ると電球を吊るしたコードから雫が滴り落ちた。風呂は台所の後ろの小さな独立した建物にで、もはやちゃんと閉まらなくなったガラス窓の隙間からすきま風が入り、外にある釜に薪をくべて湧かした。家と暗い林の境界にある風呂の中で少年は毎回恐ろしい思いをした。

 

少年は祖父と祖母と一緒の部屋に寝ていた。建物の真ん中には中庭があり、そこには形良く曲がった紅葉が植えられていた。紅葉が見える中庭に面した部屋のガラス戸の、ささくれだった赤茶けた木枠の透間からは、冷たい風が腹を空かせた二十日鼠のように次々と入り込んできた。冬の晴れた朝に目が覚めると、枕元のコップの水は氷っていた。

 

母屋のすぐ後ろ北西側には二階建ての古い白壁の倉が立っていた。祖母によればこれは江戸の頃から開業していた廻船問屋の名残だという。しかし何代も前に破産し、五つあった倉の四つが債権者の手に落ち持って行かれた。父親は近くにある神社の大きな灯籠には寄付者として自分の先祖の名前が刻まれている事を誇りにしていた。残された倉には未だ様々な品物が残っていた。江戸や明治、昭和の時代の古銭や戦争中に遣り取りしたはがきの束、立派な作りの神社のような雛祭り用の飾り物と、精巧な作りの雛人形、薬研、薙刀や槍、バイオリンまであった。並べられた箪笥や大きな茶箱の中には誰が着たのかわからないような和服がびっしりと詰められていた。後で父親がバイオリンは自分が買って流行曲を弾いていたと言っていた。少年が子供の頃、家には槍や薙刀がおいてあって、少年はなぜこんなものがあるのか不思議でならなかった。しかしそうしたものも、後に少年の祖父が小遣い銭の代わりに近くの古物業者に売り払ってしまったのだった。そして最終的にはその倉の屋根が台風で倒木のために壊れた時、父親は立て替えを決めた。業者が重機で家を壊した際に、父は不在で、歴史的な祖先の遺品はゴミとなってすべて持ち去られてしまっていた。

 

 

父夫婦が新築された母屋に戻ってきても相変わらず、少年は祖父母と後ろの倉の一階の畳の部屋で文字通り、祖父にくっつきながら寝ていたが、やがて古い倉の二階に一人で寝るようになり、そこが彼の世界となった。プラモデルを作り、絵を描き、工作をし、窓から母屋の屋根に上り、下に拡がる庭を見下ろした。庭には、桃、梅、梨、柿、柏、柘榴など様々な木々が植えてあり、鶏が何羽か放し飼いにされていた。時々隣の馬喰が来て、庭の畑を犂を付けた馬で耕す。馬は馬喰の気心の知れた旧友のように黙々とそれほど広くも内畑をあっという間に耕した。

 

 

近所には四軒の家があり、四、五人の子供がいて、男の子たちは毎日曜日朝から少年の家の前の通りでメンコやベーゴマをした。冷たい空気の張り詰めたある冬の朝、誰も来ないのを不思議に思い、葛西用水の橋の辺にある近所の子の家に行った。広い庭のある正面の母屋があり、雨戸は開けられガラス戸が見えていた。少年がガラス戸を叩くとまだその男の子は姉とふとんの中に包まっていた。ふとんの中からは、微かに暖かい本能をくすぐるような暖かな匂いが漂ってきて少年は興奮を覚えた。その日は誰も遊びに出てこなかった。

 

 日曜日になると朝早くから庭で祖父が燃やす麦藁の煙が窓の隙間から入ってくる。ガラス窓に大きなオレンジ色の炎が陽炎のように立ち昇ると、少年は布団から急いで起き出し、半纏を袖に通しながら庭の縁台に腰を下し、祖父と火を見詰めた。時々火は顔を嘗めるように近づくと思えば、いきなり逆風に吹かれて逆方向に靡いた。風にあおられた炎は左右に踊るように動くと、やがて大人の背ほども高くなる。そして火中の生木が爆ぜると、火の粉が円を舞いながら空中に飛び散り、燃えているいくつもの小さな麦藁屑は炎を離れて弧を描きながら赤いままあたりを暫く浮遊しながら、やがて白くなって地面にゆっくりと落ちてきた。庭は霜が降りて白かった地面は、暖まって黒くなりながら円心状に拡がる。垣根の向うには低い水田が背景画のように凍りついたままに拡がっていた。祖父は少年のために火の中にさつまいもを木の枝で押し込む。鶏が嘴で庭で地面をつつきながらここかしこ歩き回っている。庭の隅には、色褪せた古い小振りの桃の木が小さな花を咲かせていた。

 

年の日々2